アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

683 アチャコの京都日誌  武者と戦った天皇たち ① 後醍醐天皇

2020-03-15 08:13:59 | 日記

 新シリーズ「武者と戦った天皇たち」

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後醍醐天皇と足利尊氏

 大僧正慈円の書による歴史書『愚管抄』で、「武者の世(ムサのよ)」の中になったと言われたのが、保元・平治の乱の時である。その後、武士に戦いを挑んだ天皇が複数いる。その都度、武士の反撃によって皇室(天皇)が滅ぼされる危機があった。それでも皇室が滅びずに武者の世の中でも生き続けたのは何故だろう。
 究極の疑問に挑みながら皇室のしたたかさを考えて見た。
※ 文中、原則天皇名は崩御後の諡号か追号で通した。後醍醐ならば「尊治」という諱を使うべきだが、混乱を避ける為、すべて諡号・追号で書くことにする。天皇にならなかった皇子は諱を用いる。

後醍醐天皇

① 時代背景
後醍醐天皇の登場までの鎌倉時代を承久の変以降の皇統の変遷から見ると。後鳥羽上皇の御謀反(倒幕計画)の失敗で当然、鎌倉幕府は皇位の継承に関して神経質になった。後鳥羽上皇は勿論、隠岐へ遠島となった。さらに皇子である土御門、順徳の両上皇も島流しとなる。ただ、お二人の皇子の立ち位置はかなり違ったものだった。積極的に倒幕計画を推進した弟順徳(佐渡へ遠島)に対して、兄土御門は終始関りがない。それでも土御門は自ら遠島を申し出て土佐に流され、その後阿波に移されている。

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後嵯峨天皇
 さて、変の後の天皇を誰にするかは、慎重に検討された。まず、順徳の皇子ですでに即位していた仲恭天皇を廃止(九条廃帝・承久廃帝とも言う)し、高倉天皇の血統にまでさかのぼりその孫にあたる後堀河天皇を即位させた。ところが、その皇子である次の四条天皇が早世した為、再び後継問題が浮上する。承久の変の記憶がまだ残る幕府は、順徳ではなくせめて土御門の血統ならば許せるとし、後嵯峨天皇の即位に決まった。
 この後嵯峨天皇が2系統の南北朝時代の源流である「両統迭立」の原因をつくる。個々の天皇の経緯は別項に書くが、天皇の継承も長子相続が原則とは言え、時には、兄より弟、本妻の子より後妻の子の方が可愛いのは庶民も天皇も同じである。特に年老いてからの愛妾に「最後の一滴」で出来た子は別格だろう。その様なことが皇室ではとんでもない抗争を生む。

 

 

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 後嵯峨天皇の後は、兄の後深草(持明院統)、そして弟の亀山(大覚寺統)とつなぎ、それぞれの血統から交互に東宮(皇太子)を選んでいった。持明院統(大覚寺統)の天皇なら大覚寺統(持明院統)から東宮を決める。ただ、ややこしいのは天皇の実父が上皇として院政を行う。これを「治天の君」という。上皇であっても子が天皇でなければただの上皇であり、実際は「治天の君」が実権を持つので、両統迭立が単純に1回ずつ交互に行かないところがややこしい。

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