56 平安京 56代 通算 105 代 後奈良天皇
在位 1526年~1557年
業績(事件) 困窮の皇室続く
父 後柏原天皇
別称
死因 病死
御陵 深草北御陵
宝算 62歳
即位後、10年ほど即位式すら出来なかった。言うまでもなく財源がなかったのだ。さて、この頃の歴史については検証が十分ではなく、我々市井の歴史マニアには難解過ぎて分からない。しかし、後奈良天皇在位中の出来事を、年表から拾うと激変の時代が見えて来る。
まず、将軍は、義晴~義輝の時代だが、1527年に「義晴入京する」と書いてあるから京都にいなかった将軍なのである。足利将軍は、権力を把握していたのは3代義満までで、その子4代義持以降、籤将軍の6代義教、銀閣寺創建の8代義政が名を知れているくらいで、それ以外では素人では名前も業績も理解されない。年表に戻る。一向一揆の文字が度々見える。一方、1536年には天文法華の乱があり洛中から法華宗(今の日蓮宗)が追放される。1543年は鉄砲伝来、1549年はキリスト教伝来とまさに宗教的にも、軍事的にも激変の時代だとわかる。その間、毛利元就、武田信玄、上杉謙信、斎藤道三、山中鹿之助、陶隆房、織田信秀、・・・・・。と、歴史好きにはたまらない戦国中期の英雄がどんどん出ている。年表を見るだけでワクワクする。
その中で、1540年後奈良天皇、諸国悪疫流行により「般若心教」を書写し三宝院に祈祷させる。と、書いてあった。現在の皇太子が、昨年57歳の誕生日に、わざわざ後奈良天皇の名前を出して、その事について畏敬の念を表明している。
いつの時代でも国民の幸福を願う皇室の本質が見える。埋葬地は、多くの天皇が眠る深草北御陵である。
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