破門と絶縁
最近は「破門」という言葉を聞かない。似たような言葉で「勘当」も聞かない。いずれも師弟の縁を切ると言う意味で共通しているが、「勘当」は親子関係に使われることが多い。「絶縁」も縁を切ると言う意味では同義語だろう。しかし親子関係が希薄になり絶縁されても子供にさしたる不利益はない時代には死語となりつつある。江戸時代以前、「勘当」は、奉行所にも届けを出して後継者足りえないことを宣言し地域社会でも生きていけない程の深刻な意味があったようである。昭和の時代では「勘当だ。」と父親が宣言することの重みはそれなりにあったように思う。ドラマや映画でもそのような場面をしばしば見かけたものだ。しかし家業を継いでいくという事がなくなり、今や相続権も法律で守られているので勘当を宣言する親の威厳は法的にも急降下したのである。「破門」も以前は落語家社会でよく聞いた。月亭可朝(八方の師匠)は林家染丸門下を破門になり米朝門下に拾われたと記憶している。従って破門も絶縁も勘当も社会では生きて行けるのである。
しかしこれが任侠の世界では全く意味が違う。絶縁は、全国の同業者に「絶縁状」が回る。「右の者、故あり絶縁。よって地の果てまでも追いかける所存ゆえ心中お察しください。」となり、この社会では生きていけない。無論、堅気に戻ることも出来ず人間社会から抹殺される。
現在、会社に入社しても簡単に辞めて人材が流動化する今の時代。「絶縁」も特にその後の人生に影響はない。しかし、事情があって自ら希望して「破門」(退職)されるのは良いが、人との縁は続きキャリアとしての財産でもある。それも断ち切って「絶縁」するのはやはり大きな損失だ。
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