この日(昭和20年8月15日)になると思い出すのが親父の事です。
子供の頃に親父の膝の上に乗り、戦争の話をよく聞いたものです。
そして、そのときに聞いた内容と、親父が高齢になってから聞いた話は、全く違っていました。
子供の頃に聞いた話が作り話ではなく、残忍な出来事や攻撃された話はしなかったのです。
写真は昭和18年8月1日に、陸軍大佐の署名捺印された証明書です。
何のために書かれたのかは不明。
軍隊に入隊したのが昭和6年となっています。(写真の右端)
これは親父の話と合致します。
親父はその年では17か18才です。
いわゆる『赤紙』ではなく、自分から志願しているのです。
親父は小学校しか出ていません。
徳島市内の建具屋さんで働いていたのですが。リヤカーに山のように襖を積んで、何ヵ所も配達する仕事です。
今聞くと山道もあり、絶対に無理な距離です。その仕事が厳しくて嫌だったらしい。
そんな時に兄に召集があった。
ところが兄は肺炎で召集には応じられなかった。そして亡くなった。
そこで、、、『俺が代わりに行く』
まぁ、そんなことが可能だったかどうかは不明ですが。親父の話はそんな感じてした。
兵歴の内容は、、、
満州で満州事変に参加
満州で支那事変に参加
密林で陸軍病院に2ヶ月入院
北支で支那事変に参加
そして注目したいのは
昭和16年12月8日の日付で、、、
マニラ及びニューブリテン島ラバウルにて大東亜戦争に参加と書かれた、最後の戦地です。(写真の左端)
1941年(S16) 12 月8日は真珠湾攻撃の日です。
その当時、親父は陸軍准尉です。
学歴のない、今で言うノンキャリア組でのほぼ最終です。
親父の話では、、、
今の 中国から呼び戻され 、新しく隊を編成して、目的地も知らされず出兵だったらしい。
その途中で台湾沖に停泊して、何度か上陸作戦の訓練を受けた。
この話を裏付ける写真の内容です。
つまり日本軍はかなり前からアメリカ(連合国)と戦う準備に入っていたのです。
真珠湾攻撃を合図に、東南アジアでも開戦です。
この情報はフィリピン沖の船で知ったと言っていました。
その当時、東南アジアにはアメリカをはじめ色々な国の支配地があり。そこを支配しないと、そこを足場にして本土を攻撃されるので、絶対に負けられない戦いだったのです。
フィリピンでの戦いも勝ち戦で、半年足らずて征服しアメリカ軍は退去しました。
その後にラバウルに、、、
ここはオーストラリアの支配地でしたが、ここも比較的簡単に征服です。
親父が生きて帰国し、戦後に姉や私を作る事ができたのは、、、、
親父の戦争はどの地でも日本軍の勝ち戦だったからです。
終戦の半年前に帰国する事になり。日本で自分が居た戦地が全滅したと、何度も聞いたと言っていました。
つまり、亡くなった兄の代わりに行かず。成人するのを待って入隊していれば、敵の砲撃から逃げる戦争になり。生還は難しかったと思われます。
姉や私はこの世に存在しない事に・・・
子供の頃に親父の膝の上に乗り、戦争の話をよく聞いたものです。
そして、そのときに聞いた内容と、親父が高齢になってから聞いた話は、全く違っていました。
子供の頃に聞いた話が作り話ではなく、残忍な出来事や攻撃された話はしなかったのです。
写真は昭和18年8月1日に、陸軍大佐の署名捺印された証明書です。
何のために書かれたのかは不明。
軍隊に入隊したのが昭和6年となっています。(写真の右端)
これは親父の話と合致します。
親父はその年では17か18才です。
いわゆる『赤紙』ではなく、自分から志願しているのです。
親父は小学校しか出ていません。
徳島市内の建具屋さんで働いていたのですが。リヤカーに山のように襖を積んで、何ヵ所も配達する仕事です。
今聞くと山道もあり、絶対に無理な距離です。その仕事が厳しくて嫌だったらしい。
そんな時に兄に召集があった。
ところが兄は肺炎で召集には応じられなかった。そして亡くなった。
そこで、、、『俺が代わりに行く』
まぁ、そんなことが可能だったかどうかは不明ですが。親父の話はそんな感じてした。
兵歴の内容は、、、
満州で満州事変に参加
満州で支那事変に参加
密林で陸軍病院に2ヶ月入院
北支で支那事変に参加
そして注目したいのは
昭和16年12月8日の日付で、、、
マニラ及びニューブリテン島ラバウルにて大東亜戦争に参加と書かれた、最後の戦地です。(写真の左端)
1941年(S16) 12 月8日は真珠湾攻撃の日です。
その当時、親父は陸軍准尉です。
学歴のない、今で言うノンキャリア組でのほぼ最終です。
親父の話では、、、
今の 中国から呼び戻され 、新しく隊を編成して、目的地も知らされず出兵だったらしい。
その途中で台湾沖に停泊して、何度か上陸作戦の訓練を受けた。
この話を裏付ける写真の内容です。
つまり日本軍はかなり前からアメリカ(連合国)と戦う準備に入っていたのです。
真珠湾攻撃を合図に、東南アジアでも開戦です。
この情報はフィリピン沖の船で知ったと言っていました。
その当時、東南アジアにはアメリカをはじめ色々な国の支配地があり。そこを支配しないと、そこを足場にして本土を攻撃されるので、絶対に負けられない戦いだったのです。
フィリピンでの戦いも勝ち戦で、半年足らずて征服しアメリカ軍は退去しました。
その後にラバウルに、、、
ここはオーストラリアの支配地でしたが、ここも比較的簡単に征服です。
親父が生きて帰国し、戦後に姉や私を作る事ができたのは、、、、
親父の戦争はどの地でも日本軍の勝ち戦だったからです。
終戦の半年前に帰国する事になり。日本で自分が居た戦地が全滅したと、何度も聞いたと言っていました。
つまり、亡くなった兄の代わりに行かず。成人するのを待って入隊していれば、敵の砲撃から逃げる戦争になり。生還は難しかったと思われます。
姉や私はこの世に存在しない事に・・・