原爆の被害にあった広島にも何度か行きましたが、長崎には数十回行ったと思います。
もちろん原爆に関する施設は全て行きました。
頻繁に行ってた時期は2~30年前なので、多くの被爆者の話も直接聞くことがありました。
もう、その方々も亡くなっているかもしれません。
その方々の話は想像を遥かに越えます。
とてもじゃないが、私にその気持ちを上手く表現する能力はありません。
その人たちの話を聞くときに、相づちさえうてない。ただ、黙って聞くだけだった事を覚えています。
人の死、、、街の破壊、、、
それに留まらずに、人の心まで破壊する原子爆弾。
散歩をしていた園児に車が突っ込み死に至らせる。
仕事をしている最中に、突然の爆発と火災が発生し、亡くなった「京アニ」の人達。
そんな罪無き犠牲者を一瞬で何万人と作る核兵器は悪魔の兵器です。
亡くなった親や子供を、道に落ちている木片を拾って、そこら辺で焼くんです。
その殆どが半焼けで、遺族は悲しみと恐怖を再び経験します。
結局は遺骨も拾えません。
ゆえに、、、長崎には遺骨の無い墓が多く存在します。
その墓も、何度も移動している。
死者があまりにも多くて墓地が無いんです。適当なところに墓標をたてて、そこを墓とした。
後々にその遺族が立ち直った時に墓を新しく作ったのです。
そうは言っても墓地を求める人は多く、当然の様に高値と不足です。
ですから、長崎では共同の墓地が早くから有りました。
墓地と言っても、洋服ダンスの様なもので。土の上に墓石を建てた墓ではありません。
良い様に言えば「墓マンション」です。
近年になって、その種の墓も違和感は無くなったが、長崎で始まった頃は違和感しか無かった。
しかも、、、骨も何も無いんです。
外形的には
一瞬で広範囲が破壊され、何処が誰の土地か解らない状態になった事。
それと、今で言う避難場所を指示されて、多くの人がそこに行く。
しかし今のように建物はなく、自分で焼け跡から木を拾って建てるんです。
後々にはその場所が個人の土地だったりして、新し問題も発生もあちらこちらで発生しました。
親を失い、頼る親戚もない。例え有っても、相手も貧しく自分の事で必死の状態。
そんな人達に新しく土地を買う資力など有るはずもない。
昭和が過ぎ、平成の時代になっても中心地から、ホンの少し離れると所有者の特定できない土地がたくさん有りました。
今の長崎はきれいな街です🎵
しかし、市民の生活の中には、まだ核の被害が残っています。
生存者も存在するし、原爆被害者と長く生活した人も居ます。
その人たちの体験談は世界で記憶に残す事だと、、、。
日本はその務めが有ると思います。