地方の女たち

夜の街で出会った女達と男達

中国での戦争日記

2020-08-14 17:03:05 | 日記

これは親父の写真集に書かれた日付です。

親父の軍歴はこの時期より前から始まり、終戦の昭和20年まで続きます。

昔風に言うなら「職業軍人」なので、戦地での戦いはかなり長い方だと思います。

この種の記録はこれ以外に有りません。

考えればこれより前は歩兵として写真を撮る余裕などなかったし、これ以後は太平洋戦争となり、負け戦の連続でそれこそ写真を撮って保管する事など出来なかったのでしょう。

 

この写真集に限れば、経験している戦いは全て勝ち戦。写真集の至る所に余裕を感じる写真が多くあります。

ここでは掲載しにくい酷い写真も有るのですが、、、、

そっちの写真の方に興味が大きい人が居てるとは思うのですが、余りにも酷いので門外不出です。

数ページは上記のような写真が有ります。

私が夜の街の女の子が大好きなのは親父譲りかもしれません。

この写真集の2年間だけでも北支を何度か移動しています。 ロシアとの国境付近は極寒で-40℃と書かれています。

写真の最初は軍曹でしたが、終わり頃には曹長となっていました。

そこで旧日本陸軍の階級を調べてみると、、、その途中に

 

「桃栗三年柿八年、無能な軍曹12年」と言うのが有りました。

昭和13~14年だと親父の年齢は26~27才。 

親父は学歴の無い人だが、無能な軍曹じゃなかったのが解っただけでも誇らしい感じです。

 

「満人と生活の安定を得る」 この満人は中国人を敵と味方に分けていた感じがします。

敵の中国人は普通に街中に居てて軍服を着ていないくて、突然に日本兵に向かって発砲する事が有ったと。

それで友を失うのですから、その憎しみは大きいのでしょう。 仲間の慰霊碑の写真の横には「必ず弔いはする」と書かれています。報復を墓前で誓っているのです。

中国兵の夜襲を受けて、一時的にその場から逃げた事も有ると。 その時は頭の横をビュ~ンと飛ぶ弾の音を何発も聞いたが、音が聞こえるのは生きていると、それほど恐怖を感じなかったと言うのですから、、、いかに戦いに麻痺していたか想像が付きます。

逆に攻め入った時には、鉄の鎖で繋がれた中国兵も居たらしい。

中国の犯罪者とされた人を逃げずに最後まで戦わせる為に、味方が味方を拘束してその場で最後の一発まで撃ち続けさせるのです。。。。残酷な話です。

 

親父は昭和13年の4月に日本に帰るのですが、直ぐに元の地に戻ります。

ところが、、、暫くすると再度帰国命令が・・・その時の親父はまったく帰国命令の理由は解らなかった。

そして一時の休みをもらった後に召集され、目的地も知らされずに博多から南に向かって出航です。

 

親父たちを乗せた船の着いた所は台湾のすぐ近く、そこで上陸作戦の訓練です。。。。

そして、、、再度、船に乗り何処かに・・・

その船中で知ったのが真珠湾攻撃です。

その時、、、親父は「とうとうアメリカと戦争か・・・」と

開戦と共にフィリピン攻撃の始まりです。 そのフィリピンも数か月で攻略して、アメリカ軍は撤退しました。

意気上がる親父たちは、米軍が残していったアメ車を乗り回して歓楽街に遊びに行ってたらしい。

もちろん車は接収品なので勝手に使う事は建前としてダメなんだけど、現実は黙認されていたと。大勝利で少し浮かれていた感じが見受けられます。

※ 親父が亡くなる前にカミングアウト(笑)・・フィリピンで暮らそうと思ったらしい。お袋と結婚していたのに・・

 きっと楽しい毎日だったんだろう。

 

当時の日本軍は勝利・勝利の連続で、国内も盛り上がっていたらしい。

そして親父たちはフィリピンから南方に・・・-40℃の地から赤道直下の地に。。。

ニューギニアとその東地域に点在する島へ進攻です。 時々アメリカの軍機が飛び単発で攻撃が有る程度で、親父たち戦争慣れしている人たちにとっては平和な感じだったと。

 

暫くして親父の人生で最大の転機が訪れた。 それは私にも大いに関係します。

 

それはマラリアです。

中国兵、ロシア兵、アメリカ兵と戦ってきた親父でも、マラリアには勝てなかった。

※マラリア・・マラリア原虫がハマダラ蚊によって感染し高熱の連続となる。血液に入り色々な病気が発生する。

 

高熱に苦しみながら離れ小島で補給船を待ち、その帰りに船に乗って引き上げです。

南方の島から攻撃力の無い船に乗りフィリピン→台湾→日本の予定です。(実際には比に寄らず別の所に寄った・不明)

フィリピンまでも遠く何日もかかります。その船中で、、、、親父が居た所が攻撃を受けて、ほぼ全滅状態になったと知った。 生き残った兵士はジャングルの中を逃げ惑う事に・・・その多くが餓死したと言われています。

なんとか何処かの港に到着したが、そこから台湾に向かう頃には、戦況も悪く制空権は無くなっていた。

ですから主に夜間の航行ですが、それでも軍機からの機銃放火を受け、その時が長い戦いの中で一番死を意識したと。

やはり反撃しているうちは恐怖心も少ないのだろうが、無抵抗の時は恐怖心は大きくなるみたいです。

 

なんとか無事に日本に着き医者にかかってマラリアの高熱からも解放された。そして親しい上官に呼ばれて長崎から岡山の隊に移動になった。 結果的にそこで終戦を迎えるのですが・・・

 

マラリアに罹っていなければ・・・・

長崎に居る時に上官に呼ばれなかったら・・・

 

親父は戦死です。 当然、姉たちや私もこの世には存在しません。

 

子供の時に親父(50才代)から聞いた戦争の話と、親父が90才になった頃に聞いた話では多少違う点も有ります。

話す相手が子供と大人と言うのも有るのでしょうが、後で聞いた方が真実に近いと感じます。

子供の時に聞いた話は勇猛果敢な話が多く、大人になって聞いた話には辛い話が多々ありました。

 

そして、私が感じた「戦争」は・・・・殺し合いです。

地域を占領しただけでは戦争は終わりません。 相手を殺して殺して、相手がもうこれ以上死者を出すのは嫌と思うまで戦争は終わりません。 しかし、残念な事にまだまだ兵器で自国の富を増やそうとする国は存在します。

殺し合いなんて、何処にも大義は無い。

難しい事は私には判断できないのですが、、、、

個人と個人の戦いでも、国と国の戦いでも。

戦う気持ちの無い相手を攻撃するのだけは、、、すくなくとも無くなって欲しい。