仕事をしていない暇な人間が、チョットした治療を受けて医師から「しばらく大人しくしてるように」と言われました。
田植えも終わっているので、これと言った用事もなく、家で大人しくしている事には何の問題も無い。
しかし、体の一部が不自由で動かないとでも言うなら大人しくしているのですが、何分日常生活には何の支障も無い。
それどころか禁止されてる運動だっていつもと同じように出来るのに・・・家でボーっとしてるのは辛い
大人しくするって言っても独り生活ですから、掃除・洗濯・炊事などの家事はやらなくちゃなりません。
誰もやってくれる人はいない・・・
これは一人でいる限り、体力の落ちた老人になっても同じで、少し、、、だいぶ不安を感じます。
長時間のテレビ・パソコンは目が疲れて不快になる。
そこで、、、パソコンで音楽を聴く事にしました。
誰の歌にしようか・・・ジャンルは?
こんな時でなければ聞く機会が無い昔の歌にしようと・・・「昭和歌謡曲・動画」で検索。
色々ありますねぇ~
偶然にも数日前に10才以上年上の兄が石原裕次郎の話をしてたので、その裕次郎・小林旭などにと思ったが、流石にその人たちが最高潮で歌っている時は知らない。裕次郎はテレビドラマ、小林旭はコマーシャルが私の知るタイミングです。
私が知る昭和歌謡曲は、水商売をやってた20才代に有線放送で流れていた曲が主です。
その当時一番耳にしたのは八代亜紀。
大型のトラックを派手に飾って八代亜紀の歌を流す。トラック野郎のアイドルになる少し前だったと思います。
八代亜紀の歌を聴いていると、ある女の子の事を思い出しました
大昔の話ですが、、、
自分の店で仕事をせずに他の店に飲み歩いてた時、ある店で可愛い女の子を見つけたので何度も通うようになった。気安くなるのに時間はかからない、直ぐに私の前で歌を歌い始める様に・・(当時は珍しい)
8トラックのカラオケからレーザーディスクのカラオケに代わっていく時期でした。
その子が歌うのは八代亜紀の歌ばかり、、、ところが驚くほど上手いんです
今じゃ、どぉ~ってことない出来事ですが、当時はカラオケ店などは無く、女の子が誰かの前で歌を歌うなんて事は有りません。夜の街のホステスさんがデュエット曲で客の相手をする程度の時代でした。
外見で気に入ってた私は、その子の歌を聞いて一層メロメロです
今は立派なオバちゃんになってるんだろぉ~なぁ~
聞く事が無くなっていた昭和歌謡から八代亜紀、そして楽しい思い出と、、、楽しい事は何処にでも落ちてるもんです。
昭和歌謡を聞きながら、コーヒーを飲んでドーナッツを食べる。。。暇な昭和のオッサンそのものです。
そのドーナッツ、、、、10km余り離れた所に住む姉が作って持って来てくれた。
好みの硬いドーナッツです。
私の事情を知り「これでも食べて大人しくしときな!! 買い物は?」と。
何才になっても姉は姉、弟の事を心配してくれてるんですねぇ~、、、朝のパンの代わりに頂く事にしました。
(注意) ひま人のブログですから、意味なく長いですよぉ~ 小室圭よりは短い
主に20才代~30才代に聞いた曲が流行ったのは、その時より少し前の曲になります。ですから大半の人が私より年上って感じがします(詳しくは解らない)
酒場での歌なので少し傾向が偏っていますね。
山口百恵や森昌子は夜の街ではあまり流れなかったが、ピンクレディーはよく流れていました。
梓みちよ・・二人でお酒を
欧陽菲菲・・雨の御堂筋やラブ・イズ・オーヴァー
美空ひばりと都はるみはいっぱいありました。
そして、石川さゆりの津軽海峡冬景色を聞いた時に、、、また、ある女を思い出した。
突然、、、メールが(まぁメールは突然なもんですけど)
夜の街で働いていた女の子からのメールは日常的な事でしたが、その女の子は1年ほど連絡も無かった子だったんです。
メールを開けてみると・・・
「今、羽田に居ます。青森に帰ります。」
短い文だった。実家が青森と聞いていたので、久しぶりに里帰りするんだと思った。羽田と言うので青森まで飛行機で行く前なんだろうな。。。それにしても何故に私にメール? それを聞きたかったが、聞かない方が良いかなと感じ、、、
「親の顔を見に帰るんだ。良いなぁ~青森かぁ~。飛行機ならすぐだね」 そんな感じの返信をしました。
その返信は直ぐに来た
「羽田に着いた所です。青森には新幹線で帰ります。」
・・・私の勘違いだけど、そんな事はどうでも良いはなし。何故に私にメール? これが気になって仕方ない。
聞けば済む事だけど、なんか野暮な感じがして聞けなかった。
暫くしてメールが、、、「もうすぐ仙台に着きます。私、店を閉めて青森に帰っています。」
・・・ママさん稼業をやめて実家のある青森に帰ると言う事は、もう遠く離れた徳島に来ることは無いだろう。その時点で初めて知った。一時は親しくしていたので、もう会うことは無いと一時的に寂しくなってのメールかなと、勝手に想像した。
ところが、、、、その女の子からのメールは「仙台に到着しました」 「〇〇のトンネルを・・・」 「もうすぐ青森です」と羽田から青森まで、飛び飛びだが5時間近く続いた。 内容はどこそこと言うのと景色ばかり、二人に関係した話は少しで自身の将来の話も無い。。。私も聞かない。
結局、青森の駅で「ここからはタクシーで帰ります。サヨウナラ」で終わった。
女の子の気持ちは解りません。感傷的になっていたのは、なんとなく想像できますが、それに私は付き合わされただけなのでしようか。その後、私から連絡する事も無く、相手からの連絡もなく、何か解らない5時間だったけど、その記憶だけは残ってしまった。
それを思い出してしまい、石川さゆりの歌は知らぬ間に終わっていた。
古い記憶は時系列が怪しいですね。
私の場合30才より前か後は、徳島での事か大阪での事でハッキリしていますが、それぞれでどちらが先だったかの記憶は正しくないかも知れません。なんせ、、、余りにも昔の記憶なので。
なんかねぇ~
忘れたい嫌な事は思い出そうとすると、次々に正しく出てくるのに、楽しかった事は混ざってしまっていますね
嫌な事は思い出したくも無いので、楽しい事を思い出してみました。
医者に静養を勧められるなんて初めてだし、二度とそんな事は無い方が良いと言う今。
楽しい事を思い出そう
改めて何が楽しかったのか・・・
お気に入りの女の子を口説き落とした時、、、、
予想外の収入が有った時、、、、
女と金の事しか思い出さない、、、、情けない人生だ。。。。
・・と思っていると、1つ良いのを思い出しました。
まぁ、これも仕事でお金がらみなんですけど、一番多く儲けた話ではありません。
大阪で長年喫茶店を営んでた老夫婦の依頼を受けて、喫茶店と住まいにしていたビルを売却して、海に近い場所に家を建てて、その横に賃貸の住宅を建てたいと・・・
この依頼を私と親友の二人で成し遂げた時の達成感は、最高の楽しい思い出かも知れません。
老夫婦は奥さんの体調が悪く、その為に潮風を感じる場所が良いと言う、その老夫婦の考えなんです。
ところが海岸に近い場所は人も少なく、希望の賃貸住宅は向いていません。 それに体調が悪いのなら寒い地方は良くないと、鳥取・兵庫や京都の日本海側は除外です。
海に近く、人の多い場所、漁師町や観光地に賃貸住宅の需要は少ないので、これも除外です。
探しましたねぇ~
見つけたのは国立大学の鳴門教育大学近辺です。 ここなら学生も居てるし海にも近い。
何とか候補地を見つけ依頼者に見てもらったら、すごく気に入ったらしく直ぐに「ここ」と。
それでゲームセットみたいなんですが、そう簡単ではありません。
売るビルは立地も良く、価格もそれなりなので売りに出せばすぐに契約できると。
しかし、自宅と賃貸住宅は完成までそれなりに時間がかかります。 ビルを売らなきゃ買う資金は不足する。
早く売ってしまうと住む家が無い。そのタイミングを合わせる為に銀行から借り入れしなくちゃならない。
何分老夫婦が私たちを信頼して全権を任されているので、その金策も仕事に入ります。
もちろん建築会社を決めて、ある程度は設計にも参加する。
つまり不動産屋以外の雑用もかなりあったんです。それを老夫婦の為に頑張って最後までやり切り、ものすごく喜ばれました。もちろんそれなりの収入も有り、実利と達成感の両方を得ることが出来ました。
これが、、、一番の楽しい思い出かもね
あぁ~暇だと色々と思い出しますねぇ~。