利他愛の実践(^^)これが魂を磨く一番ではないかと思います。人に優しい言葉をかけてあげる。人の良いところを素直に認める、困ってる人がいたら助けるなどなど。『そんな事、当たり前やろ。』と皆さん思われている事は間違いないのですが、いざ実践となると、これが中々、難しい( ̄^ ̄)でも自分が困ってる時に優しくされ、初めて人に優しく出来るようになるのかも知れません。そんな自分が優しくなれた事を実感すると優しくすると不思議と心の温かさを実感する気持ち良さ。この心地良さを知って欲しくて更には人に優しくなっていけるのかな?人に優しくしてもらうには、やはり自らの日頃の行動や言動が影響するのは大きいのではないか?と。だから?言葉使うや態度は気をつけるように心がけないといけないのかな?その中でも健康は特に。普段、不摂生な生活をしていると病気になったとき?人から『自業自得だ!』と思われることも少なくありませんから病気の自分に優しくしてくれる人は少ないのは仕方ないのです。でも普段から健康に気をつけている人が病気になると周りの人は何かと励ましてくれたりします。人から優しくして欲しければ自分の普段を見直すことも大切。人の優しさを感じる事で反省や感謝が出て自分も他人に優しくなれるのかな。コップいっぱいに優しさを注がれて、更に注がれると溢れます。その溢れた優しさが他人に与えられる自分の心の中の余裕なのかも知れません。余裕という言葉が適切ではないかも知れませんが他に言葉が思い浮かばないのでご容赦下さい。魂を磨くのに『優しさ』をどれだけ持つことが出来るかは、とても大切なことかも知れないと思う今日この頃です(^^)
脳出血で倒れ、あの世に行く事なく今は生かされてることに守られてると感じています(^^)そして何か目に見えない【力】で誘導され、そして目に見えない【力】が私の周囲で動いて決められているような気持ちがします。思い過ごし?かも知れませんが私は間違いなく【力】によって守られていると思っています(^^)とにかく【感謝】しかありません。だから、私は【思い】だけをぶれずに。風と潮の流れ、波動の流れに逆らわないこと。利己的な【欲】を出さないことが第一なのです(^^)会社を相手取り裁判を提起しました。これが【欲】に引き寄せられないように心をシッカリ持たないといけません。正義と欲との葛藤(>_<)霊主肉従を貫くことができるか?あまりにも人の【欲】は強く、そして、シブトイのです(>_<)50歳を超えてやってきた私の魂の修行のハードルは高い。でも乗り越えられない問題を神様は与えない。のであれば?もし魂は丸くなく多面体なら、私の魂のある一面はピカピカし始めているのかな?ここで欲に引っ張られるとピカピカが曇ってしまう(>_<)心の葛藤(o^^o)
自分の『我』を通そうとすればするほど運は逃げていくということが漸く、この歳になりわかり始めました(^^)我儘、利己的、自己中心なことですね(^^)そして必ず回り回って自分に跳ね返る。同じように人に与えたり、譲ったりすることや、流れに逆らわず乗せて行けば必ず良い事がおきたり良いのが返ってくることも分かりました。それだけではありません。利他愛を実践すると少しずつ周りの空気を感じたり今まで見えなかったことが見えてきました。言葉で表現は出来ませんが肌で感じると言いますか(^^)頭、理屈ではないのです。空気が読める?みたいな。利他愛の実践をしていると『因果』が分かり始めます(^^)そして感謝、反省を知り差別や偏見を持っていたのが段々と薄まってくるのです。人間は足らないこと、出来ないことが多いのを知り所詮、一人の力は、たかだか知れてることを理解できます。そこからスタートだなぁと何となく思う今日この頃です。