「わざわいだ、偽善(ぎぜん)の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実(せいじつ)をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。」(マタイ23:23新改訳)
主イエスは当時のパリサイ人たちを、きびしく非難(ひなん)された。この章にある「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人」という主のおことばは、新約聖書中でもっとも辛辣(しんらつ)なことばといってよい。このことから、神がこの上なく憎み、嫌悪(けんお)されるのは、人が持つ偽善性(ぎぜんせい)であることがわかる。▼しかしこれだけきびしく非難されても、彼らは悔い改めず、とうとう主イエスを十字架に釘(くぎ)づけた。これが人の犯す罪のうち、最大のものであることはいうまでもない。そこで「義人(ぎじん)アベルの血からバラキヤの子ザカリヤの血」(35)まで、つまり旧約時代のすべての罪の報(むく)いが、主を十字架につけた彼らにふりかかったのであった。▼私たちもおなじだ。主イエスを拒否(きょひ)すれば、あとに残るのは永遠の火だけである。