しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 マラキ4章 <律法を記憶せよ>

2019-02-04 | マラキ書

Red Rose「あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を覚えよ。それは、ホレブでイスラエル全体のために、わたしが彼に命じた掟と定めである。」(マラキ4:4新改訳)

マラキは当時のイスラエル人たちが、律法を守っているようで守っていなかった事実を告発している。▼もし律法を心に焼きつけ、その教えを真に尊んでいれば、受肉して世に来られたイエス・キリストに出会えたはずであった。なぜなら、律法は人をキリストに導くために与えられたものだからである。ところが人々は律法を遵守しているといいながら、実際は空文化していた。そのために、律法の実体である主が目の前に立たれても、そのことに対して盲目であったから、この方を非難し、退けたのである。▼わざわいなるかな偽善者たちよ、と言われる神の子の前に、私たちは「主よ、そのとおりです」と出る時、実は律法を守っていることになる。彼の十字架の死は私たちの死であり、彼の復活は私たちの復活である。こうして律法はイエスにあり、人のいのちになった。◆マラキが「預言者エリヤをあなたがたに遣わす」(マラキ4:5同)と述べたのは、バプテスマのヨハネのことである。なぜなら主ご自身がそれを言われたからだ(マタイ11:14)。ヨハネは多くの群衆が洗礼を受けようとして集まって来た時、そこのナザレのイエスを見つけ、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29同)と言って人々に指し示した。普通のユダヤ青年と何も変わっていないイエス、しかしヨハネには全世界の罪を負い、贖いの供え物となって十字架にかかられる御子イエスの崇高な本質を見抜くことができたのであった。であればこそ、主は「女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません」(ルカ7:28同)と言われたのである。◆キリスト者の地上における使命は何であろうか。それは、人となって世に来られたイエス・キリストの栄光を世に示していくことにつきる。ヨハネは奇蹟やしるしを何も行わなかった。しかしただひとつ、ナザレのイエスが万民の罪を負い、旧約律法の時代に無数にささげられた犠牲動物もはるかにおよばない永遠の犠牲として、神にささげられる罪なき人としての崇高さに輝いていることを看破し、語った。だから私たちもそうすべきである。 

 


朝の露 マラキ3章 <突然、その神殿に来る>

2019-01-31 | マラキ書

紅梅「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。―万軍の主は言われる。」(マラキ3:1新改訳)

主イエスはマリヤからお生まれになって40日後、両親に携えられ、エルサレム神殿に現れた。「あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る」とマラキが預言したのは、その時のことである。▼参詣者であふれるエルサレムの宮、見慣れた光景に注意を払う人はほとんどいなかったが、老シメオンだけは気がついた。御聖霊が彼の上にとどまっておられたからである。彼ともうひとりの女預言者アンナは、エルサレムの贖いを待ち望んでいる人々(ルカ2:38)に属しており、「あなたがたが尋ね求めている主」とマラキが呼ぶ群れの一員であった。今も人となられた神に、心の目が開かれる人は決して多くない。70億人がひしめきあう喧噪(けんそう)に満ちた世界で、静かに祈り、尋ね求める少数がこのお方に出会う。▼マラキはわずか4章という短い本書に、「万軍の主は言われる」という挿入句を25回も記している(若干の違いがある表現も含め)。まるで、「私が記した書だが、私の考えや思いから出たのではない、神ご自身が直接語っておられることをよく考えよ」と言っているかのように。◆ペンテコステの日に降臨された御聖霊は、今に至るまでの2千年間、地上の教会とキリスト者の内にあり、イエス・キリストの栄光を語り続けて来られた。それなのに、非キリスト者ならまだしも、主を信じるという人々でさえ、「神に仕えるのは無駄だ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の得になろう」とささやき合っているとは、なんということであろう。さらにひどいことに、世をふりかえって慕い求める信仰者たちは、「むしろ高ぶっている人は幸せ者だ。悪にふけっても栄えている、神を試みても罰を受けていないではないか」とまで言う。神の御心を痛めしめる言葉として、これ以上のものがあろうか。◆人ではない、私やあなたの信仰の本音は何か。神はそれをご覧になっておられる。なぜなら主はすでに二千年前、仰せられたからだ。「だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」(ルカ18:8同)と。


朝の露 マラキ2章 <祭司のくちびる>

2019-01-30 | マラキ書

雪つばき「祭司のくちびるは知識を守り、人々は彼の口からみおしえを求める。彼が万軍の主の使いだからだ。」(マラキ2:7新改訳)

マラキは祭司の務めがどんなに大切なものであるかを指摘する。捕囚から帰還した人々が、困難な状況下、まず神殿を再建したのは、祭司制度が確立することこそイスラエルが国として存立していくための必須条件だったからだ。▼だが神のことばが人となり、地上に現れた福音時代はちがう。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である」(ヘブル7:17同)と預言されたイエス・キリストこそ、天と地を結ぶ永遠の大祭司であり、このお方を抜きにして神の国はない、と新約聖書は断言しているからだ。教会の講壇から、イエス・キリストとそのみ教えが聖日ごとに語られ続けることが、どんなに大切であろう。その意味で私たちキリスト者は文字通り「祭司のくちびる」である。それが国家を支え守り、国民のいのちを養う。▼礼拝が活けるみことばを見失い、何かの思想や理論に堕するなら、臨在は失せ、人々の心は荒れ果てる。日本がイ・カボデとならないため、私たちは祭司の務めに専念したい。たしかにマラキの時代、礼拝はあった。神殿もあり、犠牲動物もささげられていた。だが恐ろしい空洞化が進んでいたのである。人々は神を侮り、くずもの、価値のない傷ものを主に献げ、心から敬虔さは消えてからっぽになっていた。代わりに心を満たしたのは自己満足であった。▼このような礼拝生活から、ほんとうの信仰生活は生まれるはずもない。異邦人の女性と平気で結婚し、偶像礼拝がヤーウェ礼拝にミックスされて来た。離婚が当たり前になり、神前での誓いは遠慮なく破られ、離婚された女性たちの泣き声と悲鳴が神殿の祭壇に満ちていた。それをながめ、せせら笑う男たち。こうして神と人へのうらぎりが国中にあふれて行ったのだ。▼祭司たちは見てみぬふりを決め込み、献げ物さえあればきびしく注意しない。これでは主が御怒りになるのはとうぜんであろう。教会とキリスト者もしかり、義と聖きが空論になれば、あとは衰亡しかない。


朝の露 マラキ1章 <卑劣なささげ物>

2019-01-29 | マラキ書

黄パンジー「また、『見よ、なんと煩わしいことか』と言って、それに蔑みのことばを吐いている。―万軍の主は言われるーあなたがたは、かすめたもの、足の萎えたもの、病気のものを連れて来て、ささげ物として献げている。わたしが、それをあなたがたの手から取って、受け入れるだろうか。―主は言われるー」(マラキ1:13新改訳)

マラキが活動していた時代、神殿における礼拝は不敬虔このうえないものであった。▼律法には、「欠陥のあるものは、いっさいささげてはならない。それはあなたがたのために受け入れられないからである」(レビ記22:20同)と明記されているにもかかわらず、人々は足がなえていたり、病気で役に立たない動物を持って来て、平然とささげていた。つまり、自分の財産を減らすのはもったいないとばかり、価値がなくどうでもよいものを神にささげていたわけで、礼拝者としてあるまじき卑劣な行為であった。主はいつでも、御前に近づく人の心と動機をじっとご覧になっておられ、カイン的なささげもの(創世記四5)をきびしく退ける。◆蔑む(さげすむ)とは、「他人を自分より、能力・人格の劣るもの、価値の低いものとみなす」と日本語辞書にある。最高の天使として造られたルシファーは、あるとき自分を創造された神に対し、この思いを抱いたのであろう。そのとき彼は天から追われ、悪魔になった。罪の本質は高ぶりだが、これが神に向かえば反逆とよばれ、被造物・特に人間に向かえば蔑みとなる。◆この世はこの精神に満ちており、神に喜ばれること・神に喜ばれる人を蔑み、悪魔が喜ぶことを高く評価する。天の世界と完全に逆になっている。たとえば、五千人のパンの奇蹟を見、それを食べた人々は感激のあまりガリラヤ湖の向こう岸からイエスを追いかけ、カペナウムまでやって来た(ヨハネ6章)。今度はもっとすごい奇蹟が見られるのではないか、とわくわくしながら・・・。ところが、「わたしがいのちのパンです」とイエスが言われると、なんだ、そんなことか、といってがっかりした。彼らは主イエスをナザレ町の大工ヨセフの息子と知っており、ふだんから蔑んでいたからであった。イザヤが預言したとおりである。「彼には見るべき姿もなく輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:2,3同)◆私は教会とキリスト者の多くが、実際にはこの価値観と精神で生きているのではないかと思う。信仰こそすべて、と口では言うが、実際には世的な価値判断を優先させ、主イエスと神の国に関することを第二、第三にしているのである。預言者マラキの時代と、実際には変わっていないと思えてならない。イザヤは「私たちも彼を尊ばなかった」と言う。彼は正しい預言者だったが、キリストを尊ばない人々の中に自分を入れた。つまり彼は御霊のメスを自己の心にも向けて預言しているのだ。これが認罪ということではないか。だとすれば、なおさら私たちもそうする必要はないだろうか。「あなたがたのことだ。わたしの名を蔑む祭司たち」(マラキ1:6)というみことばのメスを。