「あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を覚えよ。それは、ホレブでイスラエル全体のために、わたしが彼に命じた掟と定めである。」(マラキ4:4新改訳)
マラキは当時のイスラエル人たちが、律法を守っているようで守っていなかった事実を告発している。▼もし律法を心に焼きつけ、その教えを真に尊んでいれば、受肉して世に来られたイエス・キリストに出会えたはずであった。なぜなら、律法は人をキリストに導くために与えられたものだからである。ところが人々は律法を遵守しているといいながら、実際は空文化していた。そのために、律法の実体である主が目の前に立たれても、そのことに対して盲目であったから、この方を非難し、退けたのである。▼わざわいなるかな偽善者たちよ、と言われる神の子の前に、私たちは「主よ、そのとおりです」と出る時、実は律法を守っていることになる。彼の十字架の死は私たちの死であり、彼の復活は私たちの復活である。こうして律法はイエスにあり、人のいのちになった。◆マラキが「預言者エリヤをあなたがたに遣わす」(マラキ4:5同)と述べたのは、バプテスマのヨハネのことである。なぜなら主ご自身がそれを言われたからだ(マタイ11:14)。ヨハネは多くの群衆が洗礼を受けようとして集まって来た時、そこのナザレのイエスを見つけ、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29同)と言って人々に指し示した。普通のユダヤ青年と何も変わっていないイエス、しかしヨハネには全世界の罪を負い、贖いの供え物となって十字架にかかられる御子イエスの崇高な本質を見抜くことができたのであった。であればこそ、主は「女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません」(ルカ7:28同)と言われたのである。◆キリスト者の地上における使命は何であろうか。それは、人となって世に来られたイエス・キリストの栄光を世に示していくことにつきる。ヨハネは奇蹟やしるしを何も行わなかった。しかしただひとつ、ナザレのイエスが万民の罪を負い、旧約律法の時代に無数にささげられた犠牲動物もはるかにおよばない永遠の犠牲として、神にささげられる罪なき人としての崇高さに輝いていることを看破し、語った。だから私たちもそうすべきである。