「神の霊が祭司エホヤダの子ゼカリヤをおおった。彼は民よりも高いところに立って、彼らに言った。『あなたがたは、なぜ主の命令を破り、繁栄を逃がすのか。』」(Ⅱ歴代24:20新改訳)
祭司エホヤダの息子ゼカリヤは旧約最後の殉教者といわれる。彼はユダ王ヨアシュ(ダビデから10代目)が律法を破り、民を偶像礼拝に導いたとき、敢然(かんぜん)といさめたので、神殿境内で石打ちに会い、殺された。その際、ゼカリヤは「主がご覧になって、責任を問われますように」と言いながら死んだことが記されている(同22)。▼ステパノはこれと違っていた。サンヒドリンの人々がよってたかって石打ちにしたとき、血まみれになりながら、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒7:60)と大声で祈りつつ死んでいったのだ。それをすぐそばで見ていたのがサウロ、つまり後のパウロであった。たぶん彼は深い衝撃(しょうげき)を受けたにちがいない。モーセ律法では、不正な暴力を受けた時、被害者が神に正しいさばきを求めるのは当然とされている。ゼカリヤの死がそれだった。▼ところがステパノは、自分を殺す人々に対し、神の正しい刑罰(けいばつ)が下るようにと祈らず、「この罪を彼らに負わせないでください」と祈りながら死んだ。ユダヤ律法の学徒パウロは、それまで学んで来たことでは説明できない「神の愛の顕現(けんげん)」に出会ったのだ。罪に生きている人間は、神の愛を目の前にしたとき、砕かれずにはいられない。もちろん、その最大の光景がゴルゴタにおける主の祈りである。主イエスの死、その御霊をいただいたステパノの死、地上に現れた神の御愛は、こうしてパウロを迫害者から福音の使徒へと変えたのであった。
①イエスより流れる御神の愛は みなぎり溢れて代々にぞ至る
飛び込め 飛び込め 飛び込め いま主の愛に いま主の愛に
②み使いたちさえ知らざる奥義 救いは卑しき者にも及ぶ
たたえよ たたえよ たたえよ わが主の愛を わが主の愛を
③赦してきよめる流れはイエスの 開かせ給いし 源よりぞ
尊し 尊し 尊し げに主の愛は げに主の愛は
④わが身を留めるカセより離れ ただわが主のため生くべきために
満たせよ 満たせよ 満たせよ なお主の愛を なお主の愛を
<新聖歌214 詞:Mrs.S.Brigadier Mckenzie>