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全館輻射熱冷暖房住宅システムの開発者・福地建装・代表取締役会長
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靖国神社を考える・・・岡山~東京~函館~北斗市

2006年08月05日 18時46分47秒 | Weblog
写真はファース本部本社に社内安全を祈願して祀っている神棚です。
今日、岡山からの飛行機の中で、靖国神社に御参りに行くのだと言う老紳士と話をする機会がありました。

「靖国で逢おう!」老紳士の父親がこのように告げて出征したそうです。今日8月5日が特攻隊で戦死した命日だそうです。10日あとの15日には終戦なのに・・・
終戦の間際に多くの若者達が、仲間、恋人、妻、子供、親兄弟などに「靖国で逢おう」の言葉を残して戦場に散って行きました。自らが行きたくて行く戦場ではありません。往かせたくて往かした戦場でもありません。戦地に散っても靖国であえる・・・
散って行く若者も、送り出す家族も「必ず靖国で逢える」

行く者はこのように自分に言い聞かせて戦地へ赴いたのでしょう。
往かせる者はこのように自分に言い聞かせて戦地に送り出したのでしょう。
後戻りの出来ない状況の中で、行く方も、往かれる方も、自分の気持を整理して、けじめを付けるため「必ず靖国で逢えるのだ」と言い聞かせたと言う事です。

戦死して靖国に祀られたら、後から、戦争を激化させた戦争指導者も合祀されて来て・・・
国のために命を投げ出したと言う意味では、戦死した人も、戦争責任者も同じだと言うが、戦死した当事者の立場になったら何とも居心地の悪い靖国ではないか・・・
靖国で家族や恋人を待つ英霊も、その同じ場所に祭られている戦争指導者も、同じ気持で拝礼を受けられるでしょうか。戦死者と指導者との分祀は、同じく祀られる両方の立場に立っても当然の事だと思われます。

日本は神道の国です。
人が死ねば誰もが純真な神様になるのだから合祀した・・・しかし、祀られる神の立場も考慮した方が良いと思うのですが・・・
仏教もキリスト教も神道の歴史から比べたらはるかに新しい宗教文化と思われます。
国のために命を奉げた英霊を祀る靖国神社が、神道の神式で行なうのも日本古来の文化に倣う自然な姿だと思われます。
憲法で政教分離が規定されていますが中東で行なわれている「聖戦」など言う狂信的な戦争状況を作らないためにも必要な事なのでしょう。
しかし、日本の神道がイスラム原理主義などと同等に扱うのでしょうか。
だいたい日本の神道が宗教と言えるかどうかです。

論争になっているのが外国から言われて靖国神社に御参りに行くとか往かないとか・・・とてもナンセンスな議論です。
ベトナムに侵略戦争を仕掛けた米国大統領の祈念墓地に、米国政治家が献花してベトナム人が抗議をしましたか。そのような例を探したら山ほどあります。
日本人の我々も現在の靖国神社の置かれている立場に不自然さを感じるのです。
国内でしっかりとした議論し、この不自然さを払拭し、外国から指摘された時には毅然とした対応が出来るよう環境整備をしなければと思うのは私だけでしょうか。

今日は岡山から北海道への移動日で、少々、仕事以外の事に意識を手向けました。
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