先日、聖路加病院の日野原先生が亡くなりました。
1000人以上の人の死を看取った、105歳の生涯でした。
日野原先生の言葉に
「死を生きる」
という言葉があります。
この言葉と真逆のことを言った人がいます。
自死をした関西の名落語家、桂枝雀さんです。
枝雀さんは、
「生きていって生きていって、生きたその連続の先に死がある。
そう考えたなら、生きるということは、即ち、死ぬことではないのか」
そのようなことを言っているTVを観て、興味深く思ったことがあります。
私は61歳になります。
親兄弟の死を経験し、親戚従兄弟の死があり、同窓会へ出席すれば毎回のように同級生の死の話を聞き、日本人の平均寿命が80歳を超えたとは言え、いやはや、「死」を切に身近に感じる年代になりました。
私は若い頃は、
自分の生き様(自分の背中)を子供達に見せようと生きてきたように思います。
でも今はー
自分のしなければならないことは、
如何にどのように死んでいくか、それをどの様に子供達に見せるかが私の生きる役割ではないかと思っています。
言い換えればー
それが、私のいまを生きる意義でもある、ということでしょうか。
死ぬのは怖いですが、でも以前よりは恐怖心はないのです。
父も兄達も逝きました。
「この次は自分の番なんだなー、順番だなー」
と受入れる覚悟のような思いが、
最近、私の心を覆っています。
1000人以上の人の死を看取った、105歳の生涯でした。
日野原先生の言葉に
「死を生きる」
という言葉があります。
この言葉と真逆のことを言った人がいます。
自死をした関西の名落語家、桂枝雀さんです。
枝雀さんは、
「生きていって生きていって、生きたその連続の先に死がある。
そう考えたなら、生きるということは、即ち、死ぬことではないのか」
そのようなことを言っているTVを観て、興味深く思ったことがあります。
私は61歳になります。
親兄弟の死を経験し、親戚従兄弟の死があり、同窓会へ出席すれば毎回のように同級生の死の話を聞き、日本人の平均寿命が80歳を超えたとは言え、いやはや、「死」を切に身近に感じる年代になりました。
私は若い頃は、
自分の生き様(自分の背中)を子供達に見せようと生きてきたように思います。
でも今はー
自分のしなければならないことは、
如何にどのように死んでいくか、それをどの様に子供達に見せるかが私の生きる役割ではないかと思っています。
言い換えればー
それが、私のいまを生きる意義でもある、ということでしょうか。
死ぬのは怖いですが、でも以前よりは恐怖心はないのです。
父も兄達も逝きました。
「この次は自分の番なんだなー、順番だなー」
と受入れる覚悟のような思いが、
最近、私の心を覆っています。