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1995年の1月17日は、忘れられない日である。
でも、「もう」というべきか「まだ」というべきか、16年がたった。
仏教的に言えば17回忌である。
実は、私は今年に入ってからDrストップで一日もまだ仕事に行っていない。
自分にとっての辛い時期は、体をとにかく休めて、情報を遮断して
生活するほうがいいとのことで、テレビも新聞も関係のあるものは遮断。
ちょっとした気晴らしのお出かけは、私にとっては震災のイメージが
薄いところに限定しているほど徹底している私。
あの時は、大混乱の中での無我夢中の時期だったけれど、
時間がたつにつれて辛い記憶へと変化していった。
何度も記憶を反芻するので、より記憶が鮮明になってくる部分もあるし、
まったく抜け落ちている部分もある。
このことを自分が体験するまで、身近にいた戦争を経験した人が
「そのことは思い出したくない・・・」ということが多く、
子供だった私は、経験した人が話してくれないと分からないのに・・・
と、思っていたけれど、自分が震災を経験したことにより、
なかなかあの時の経験は、身近になれば成る程言いにくい。
神戸も、震災以降に転入してきた人や生まれた人が38%も占めるように
なってきた。
転入して来た人は、「震災前はこうでね、後はこうなったのよ。」と、
神戸の人に必ずと言っていいほど当たり前にのように
いわれる事にびっくりしたという。
震災が、神戸の人の時間を表す指標のひとつになっているのだろう。
最近読んだ本の中で、曽野綾子の「老いの才覚」があるが、
目を惹いた箇所があった。
最近の被災地の映像を見ていると、彼女は苛立ちを覚えるという。
ただ、座って「まだ食料が来ないから食べることが出来ない」という
言葉は戦中派の彼女には信じられないようだ。
私自身、避難所で見た光景で印象深かったのは、比較的若い世代は、
なすすべなく戸惑っていたように見えたけれど、
戦中派のおばちゃんたちのエネルギーはすごかった。
同じようなお弁当が続き、不満が若い世代から出ているときも
彼女達は、お弁当の中のご飯を雑炊にしたり、「つくだに」を作って
味のアクセントにしたり・・・。
その様子をみて「内心すごい!!」と思った私。
その時の彼女達の合言葉は、「食料があるんやから工夫したらええ」
「もう恐れ入りました!!」(笑)
戦争の経験はないほうがいいけれど、あの時の彼女達は明らかに
あの経験を踏まえての行動だった・・・。
だったら、私はこの自分の経験をどう生かしていけるんだろう。