〝浮き雲〟田舎で ぼちぼち と!?〟

気の向くままに書き込んで、読み返すと…
70歳台後半の自分が見える、か、な?。
📷〝写真〟も載せてみます。👴

; 「顔面麻痺」の 経過…

2007年06月11日 22時15分15秒 | 振り返ると

5月15日の午後に発症 した「特発性顔面神経麻痺(ベル麻痺)」。

あれから、3週間余りが経過した。 左の顔面は、未だ、少ししか 動かせない。 力を入れると、右側に引っ張られるように、歪む。 笑ったときが、激しい。

   普通にしていても…、

鼻下線が、左へ 斜めに引っ張られ、唇の左側が、短くなっている。

(自分では、左右 逆方向になる。)

 

初診以来 処方されていた薬の内、ステロイド系は1週間で減量され、2週間で止められた。 ビタミンB系は、2週間後から増量され、現在に至っている。

リハビリの方法は…、無理せず・急がず で、鏡を見ながら、左右対称を心掛けて、自分の意思で、麻痺している左側を動かすこと。

注意点は…、目元、口元、頬 などと、動かすところを限定する。 つまり、神経が混乱しないように 心掛ける。

たまに、左顔面の筋肉を、ゆっくりと マッサージする。

一説では…、神経の再生速度は、1日に1ミリほど だとか。 セカンドオピニオンのドクターは、「回復には、2ヶ月は必要」と 話された。

未だ、目標半ばの1ヶ月にも届かないが、麻痺している左顔面が、一部でも・少しでも動かせたときは、やはり 嬉しい。 

心なしか、左の口元が、軽くなった感じがしてきた。

きょうも、鏡の中の、自分の顔と向き合う 「リハビリの時間」が、楽しくもある。

(6月9日下書き、11日公開)

 


☆ 衝撃の「5月15日」 …

2007年05月30日 08時45分50秒 | 振り返ると

それは、5月15日(火曜日)のことでした。

ウインクが、左目で 出来なくなりました。 お茶が、コーヒーが、うがいの水が、唇の左側から漏れてきます。

なんと、顔の左半分が、動かせなくなってきたのです。

予兆が無く、突然と言っても良いくらいに、午後から夕方に掛けて、麻痺症状が出てきました。

 

先ず、最初に疑ったのは、脳の障害です。 夜、〝我妻さん〟の帰りを待って、専門病院へ乗せて行ってもらいました。

当直のドクターが、直ぐに対応され、「MRI」で 検査します。

ゴーッ、ガーッ。 頭の周りで、大きな音がします。 耳栓をしたうえ、事前に予告音が聞こえてくるのですが、最初は、しかめっ面になってしまいました。 およそ、15分の検査でした。

 

終了後は、しばらく、待合室で過ごしました。 その間も、心配…です。

看護師さんに呼ばれて、診察室へ入ると、

ドクターが、検査フィルムを、透過機に、ズラリと並べて 視ておられます。

結果は…、「MRIでは、異常ありません」とのことで、一安心しました。 薬も、三日分、出していただきました。 ステロイド系と、ビタミン系です。 

 

翌 16日には、番組の収録がありました。 唇を閉じる音「マ、パ(pa)、バ(ba)行」の発音が思うように出せません。

放送に、穴を空けることは出来ないので、何とか対応しました。 ホッ…。

 

明くる 17日(発症3日目)は、近くの開業医(耳鼻咽喉科)さんで検査を受けました。 周波数別の聴力や、鼓膜に繋がる神経の反応など…です。

鼓膜を、大きな音から保護する神経は、繋がっていました。

 

薬の終わる18日の午後には、改めて、夜間診療を受けていた 脳神経の専門病院を訪ねました。

採血検査を踏まえて、薬は、週末を過ごせる分の、処方箋を出していただきました。

 

 ~ 顔面神経麻痺(ベル麻痺)のようです。 ~ 

麻痺は、発症後 4日から一週間が 悪化するピーク…とか。 

20日現在、痛みは ありません。 吐き気も、苦痛も ありません。

左目は、右目と同時であれば、緩くながらも 閉じることが出来ます。 唇も、きつく締めれば、水などは 余り 漏れないようです。

但し、少し力を入れると、顔が歪みます。 洗顔、歯磨き、食事、会話…と、日常の動作に不自由です。 食事を、美味しく 頬張ることが出来ません。

 

ここ数日は、いろんな意味で、衝撃でした。 今も…です、が。 

そして、自分以上に、家族や周りに 心配を掛けているのが、申し訳ないことです。

 

週明けには、再々診です。 リハビリの方法など、相談内容が 頭をよぎります。

これ以上、麻痺が進まないように祈りつつ。

 

¢5月20日=62歳の誕生日に下書き。

(プレゼントを手にしたお礼の写メールを送ったら、息子たちに、顔の変化を気付かれていた。)

¢5月22日=通院。7日分の処方箋。服用方法に変化無し。

¢5月25日=10日間経過を機に、セカンドオピニオン。

(検査を3種類。左右の顔面の反応具合も比較検査。回復には、2箇月…か?。) 

¢5月29日=通院。発症以来2週間。薬の服用法に変化⇔ステロイドを減らし、ビタミンを増やす。

(リハビリを兼ねて、軽い発音練習。無理は禁物と、ドクターに釘を刺されている。)

30日に、公開を決心。

 


声帯が緩んでいます…

2006年08月22日 10時46分35秒 | 振り返ると

金沢市の、或る 耳鼻咽喉科の先生が、「あなたの声帯は、片方が、ほんの少し 緩んでいます。 声を使う仕事は、止めておく方が良いですよ。」と 診断された。

 

特派員が、医院の扉を押したのには、ある訳があった。

擦れ声… なのだ。

 

小さい頃から「アナウンサーになりたい」と思い続け、言い続けていた。 

兄弟が無く、片親という、極めて貧困な家庭に育った 特派員は、NHKのラジオ放送が、それらの代わりになっていた。 第一放送も、第二放送も、だ。 

だから、アクセントやイントネーションは、話し方も含めて、自然に 共通語(当時は〝標準語〟)になっていた。 国語の教科書を読むときも…

・・・・・ と 思っていたな~。 (^^ゞ ポリポリ

 

アクセントの身近な例では、「唐傘(からかさ)」 だ。 田舎では 「かかさ」だが、共通語のアクセントは 「からかさ」となる。 よく言われるのが「箸」「端」「橋」だろう。 これも、日常でクリアしていた。

 

発病、大手術、そして 留年…と、激動の小学生時代は、充分、ドラマ仕立てになっている特派員だった。(別稿で掲載)

 

家庭(経済的)と 自分(内臓が 一つ 無いぞう)の事情で、大学進学を諦めた時点で、道は 八割方 絶たれていたのだが、諦め切れなかったのだ。 (-_-;)

〝擦れ声〟に悩む 特派員が、耳鼻咽喉科を訪ねたのは、昭和40年代のことで、とっくに 二十歳を 過ぎていた。  

   結局は… 

自分の人生に、「引導」を渡す機会を 作ったことになるのだ。 

非常にショックを受けた。 極めて 悲しい結論だった。 

悲嘆に暮れるとは、そのときのことだと思う。

軌道修正を始めるには、それなりに、かなりの時間が 必要だった。

 


ゴム、護謨、ごむ…

2006年08月20日 22時36分12秒 | 振り返ると

小学校4、5年生ぐらいまでは、夏は「ゴム草履」で過ごしました。 色は「茶」で、表面には 畳の表面の様な、雪駄の模様があって、滑り止めにもなりました。

やはり、ゴムの鼻緒が付いていて…、ひょっとしたら〝一体成型(一体加工)〟だっかも知れません。 全部がゴム製ですから、汚れても、ザブザブと 水洗い出来るので、履いたままで水をかけ、足と一緒に洗ったものです。

 

夏休み以外の、通学や余所行きは、ゴム製の「短靴」でした。 色は「黒」。 安い物は ゴムが薄くて、破けることがありました。 通称は、その物ずばり「たんぐつ」でした。

暑い日や雨の日は、通気性が悪い上に 水が入りやすく、靴の中は グチャグチャです。 でも、こちらもゴム製なので、遠慮なく 水洗いできました。

 

雨の強い日や 冬などは、ゴム製の「長靴」です。 つまり、「ごむなが」。 色は「黒」。

あの頃は、ゴム製品に、随分 世話になっていたようです。

昭和20年代の、田舎の子どもの 「履物」でした。

 


ペコちゃん、ポコちゃん は…

2006年07月28日 18時41分01秒 | 振り返ると

入院中に、お世話になった 二人の若い「看護婦」さん。

手元に、モノクロ(白黒)の写真が残っている。 手札形のものが 2枚だ。 看護婦さんは 白衣で、特派員は着物…、といっても 寝巻き姿だ。

1枚は、不二家のキャラクター「ペコちゃん」に似た…、看護婦さんとのもの。 もう1枚は、女優の伊藤榮子さんに似た顔立ちの… 看護婦さんで、特派員の斜め後ろから、肩に手を添えてくれているもの。 特派員の中では「ポコちゃん」である。 

残念ながら、お二人の 名前を覚えていない。 子どもだったから、ペコちゃん、ポコちゃんで良かったのだろう。 残念だし、申し訳なく思う。

 

当時、特派員は 小学4年生。 大きな手術を経験した年の、晩秋に撮ってもらった写真のようだ。 背景は、病院の建設現場で、木造から鉄筋に立て替えられる途中だったらしい。 誰が写して下さったのか、大切な〝思い出写真〟だ。

二人の看護婦さんには、何かと気に掛けてもらった記憶がある。 中でも、組み立て式の「風力計」を プレゼントしてもらったことが、強く 心に 残っている。

銀色のブリキ製で、工具が無くても 組み立てられるものだった。 十文字の棒の端に、お椀を立てた形に 四つの風受けを付け、台組みの縦棒にセットすると、風を受けて 回ってくれる…。

風が無いときは、一生懸命、自分の息を吹き付けて、回していたものだ。

 

子どもだから、病棟の都合で、病室は あちらこちらへ…移されたものだ。 今でも覚えているのは、4回である。 つまり、移動要員!? でも あったらしい。 

大きな手術の後は、個室だった。 輸血の人が、枕元に立っていた、あの部屋だ。 その後、6人部屋へ移った。 この部屋では、夏の花火を、病室の窓から 垣間見ることが出来た。 「犀川(さいがわ)」河畔の花火だったように思う。

その頃、「お富さん」という歌が流行っていた。 何故か、今でも覚えているのだ。 懐かしく、ほろ苦い気持ちになる。 だから、歌うことは無い、のだが。

ある時期は、女性用の部屋へも入っていたことがある。 先の「6人部屋」がそうだったかも知れない。 

もちろん、各部屋とも 周りは全部 大人の患者さんだ。 詰まるところ、お世話になったのが「内科」だったから、当然なのだろう。

ただ、途中で、耳鼻科の病棟へ移されたときは、さすがに 子ども部屋だった。 

毎週 日曜日に、遠い道のりを 見舞いに来てくれる〝お袋さん〟が、「たびたび 病室が変わっていて、何処か分からずに 困った…」と、今でも 思い出話をするほどだ。

退院が近付いた頃には、10人以上は入っていた 大きな部屋に移っていた。 随分 広くて、教室のようだった記憶がある。 以前は陸軍病院だった面影が、そんな所にも あったように思う。

この病室では、三日三晩以上 しゃっくりが止まらなかった人がいた。 その人は、ある朝、亡くなっておられた。 その日は、一日、ただただ 悲しかった。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

退院したのは、翌年の1月31日。 入院期間は、6ヶ月と少しだった。

 

その後、風の便りに、ポコちゃん看護婦さんが、北海道へ転出された… と聞いたことがある。 今だと、お二人とも、70歳を超えておられるはず。 

出来れば、お会いしたいものだ。

 


覚悟を決めた夏のこと…(大手術)

2006年07月16日 07時17分36秒 | 振り返ると

小学校4年生の 夏・7月に、特派員は、重大な覚悟を決めた。

それは、避けられない事態に、否応無く引き込まれた結果だった。

当時、特派員は、原因不明の 症状に悩まされていた。 近くの医院に始まって、県庁所在地の総合病院へ、〝お袋さん〟に連れられて、通ったのだ。

一時期は、親戚の家に泊まりこんで、病院の門をくぐったこともあった。

随分、いやな検査を受けて、痛い思いもして…である。

 

しかし、症状には 改善が見られず、その後、昔の陸軍病院?だった 木造の 大きな病院に 診療先を変更した。 昭和30年の梅雨・6月だった。

 

早々に、入院が決まった。 急いで、手術を受けることになったのだ。 

担当は、小柄で、四角い顔にメガネをかけ、その奥には、優しい眼差しのある 男の先生だった。 

小4の自分には、外出着が有る訳でもなくて、通学用の、白い半袖の開襟シャツと半ズボン姿だったことを、覚えている。 

先生に、襟のバッチについて聞かれて、学校の委員バッチだと話したところ、「頭が良いんだね」、と言われたのも 覚えている。 子ども心に 嬉しかったのだと思う。

 

手術は、臓器を摘出するもので、当時、その病院では、大人の人が 何人か、同様の手術を受けていた。 入院した病棟では、子どもだった私は 怖いもの知らずで、手術を経験された方に、話しかけていたらしい。

手術の日が近付いたとき、「摘出後の臓器を、親には、是非 見せて欲しい」と、看護婦さんに頼んでいたらしい。 このとき、子どもとしては、大きな覚悟を決めていたのだ。

それは、別の人の〝もの〟を、病棟で見たことがあったからだ。 その腫れ具合は、今でも脳裏に焼き付いている。 (今 考えると、説明用の標本だったのかも?) 

先生からは、「気付かずに放って置いたり、手当てが遅れると、直に 化膿・癒着して、手が付けられなくなる…」と、説明があったそうだ。

 

7月に行われた 手術では、麻酔の量が、予定の2.5倍になったらしい。 

実際は、特派員には 半身麻酔をかけたが、手術台では、相当 わめいて 暴れたらしい。 「先生は、痛くないと言った。 嘘つきや~!。」 といった具合に?。 

本人は、相当に、怖かったのだと思う。 

 

その後は、加えて 全身麻酔が施され…、お腹の外回りの 五分の二 に メスが入った。

 

手術が 終わったのは、開始から 5時間も過ぎてからのことだった。

結果は、〝無事成功〟。 家族や親戚も、大喜びだったそうだ。

 

病室で 目が覚めたとき、虚ろな特派員の枕元辺りに、知らない人が立っていた。

後で聞いたところ、輸血のために来ていた人だった。 昔は、それが 当たり前だったのだ。 大きな手術で、輸血量が多かったからだろう。

 

〝お袋さん〟の話では、先生は、「子どもへの手術の成功例」として、学会へ報告する…と、話しておられたらしい。 

 

あの大手術を受けたのに、還暦を過ぎても生かされている幸せを、日々 感謝している。

同時に、仮死状態で生まれた身でもあり…、世の中へ お返ししただろうか?、しているだろうか? と 反省してもいる。

 

特派員が知っている〝同様の手術〟を受けた人たちで、今 ご存命の方が 県内で二人。 もちろん、当時も 大人の方だから、今では かなりのご高齢だ。 皆さん、四角くて優しい先生に、助けられたのだ。

 

62歳になった現在は、残念ながら、あまり記憶が無く、もどかしいところだ。 2.5倍の麻酔の影響か、50年余りの時間経過によるもの か…?。 おまけに〝お袋さん〟も、寄る年波からか、記憶が曖昧で…。 

何しろ、半世紀も前の 出来事だから。

 


仮死状態で…(生まれたとき)

2006年07月12日 23時20分38秒 | 振り返ると

特派員が生まれたときは、仮死状態 だったらしい。

もちろん、本人は記憶に無い。 が、〝お袋さん〟の話によると…、

当時は、「里(さと)(実家)で、産婆さんが 取り上げてくださった、とのこと。

ときに、昭和20年・終戦の年だ。 その日の天気は 晴れ。 日曜日の午前6時頃のことだった。

生まれて直ぐには泣き出さず、呼吸もしていない。 つまり、仮死状態。 

産婆さんは、赤子の両足を持ち上げて 逆さまにし、背中を叩いた。

 

しばらくして、オギャーと 産声があがり、一同「ホッ」。

 

なんと人騒がせな、特派員の誕生秘話…

…だったそうな。