〝浮き雲〟田舎で ぼちぼち と!?〟

気の向くままに書き込んで、読み返すと…
70歳台後半の自分が見える、か、な?。
📷〝写真〟も載せてみます。👴

半月以上のブランクに、休み癖がついた特派員。 でも、「それなりに忙しかった」と自慢げな・・・

2011年08月29日 18時05分06秒 | 振り返ると

「明日からお盆」・・・以来の投稿です。

何とか、頼みの・メインパソコンが復旧した・というのに、「休み癖」がついてしまいました。

 

いろいろ賑やかだった「お盆」が過ぎて、きょうは・早くも29日。

でも、お盆の話題を・・・

叔母たちが・それなりの年齢になり、〝お袋さん〟を訪ねて集まる「お盆」でも、滞在時間が短くなりました。

叔母さん本人はもちろん、それぞれの〝連れ合い〟にも・健康上の理由が生じてきて・・・、

ゆっくりせずに帰ったり、訪れる日取りが変化したり・で、ことしは「思い出話」の量が・うんと減りました。

 

その代り、息子たちの家族が・揃って集まり、数年振りに・庭で「バーベキュー」をして・・・

夜には「花火」を楽しんで・・・それはそれで、賑やかな「お盆」になった次第です。


特派員は、「BBQ奉行」の座を息子たちに譲り、準備と片付けを担当したものの、

結局は〝我妻さん〟に負担が掛かったかも知れません。


孫たちに慕われる〝我妻さん〟は、意に介しない様子でしたが、かなり疲れたとは思うので、

ゴミ出しや風呂当番を、積極的に こなした・特派員です。(自慢げ~っ

 

 


義母の最期を見送って・・・思い出した・・・こ と は (?_?)

2011年02月27日 17時44分37秒 | 振り返ると

その昔、真剣に思ったことは・・・

〝悪い人になると長生きできる〟でした。

 

もちろん、若くして亡くなった方の・ご遺族への「慰めの言葉」を、そばで聞いていて、言葉どおりに信じた!?

遠い・子どもの頃の思い出です。

(父親が亡くなったのは、6歳のときでした。)

 

「いい人ほど・早くに亡くなって・・・。ご愁傷様です。」・・・の、裏返しですよね。

 

言い換えると、六十路半ばになった特派員は、きっと、悪い人になれたのでしょう。 

 

88歳で亡くなった・義母を見送って、葬儀の日に思い出した こと でした。

 

 


ラジオ番組、大祓い式、ステージ・リハーサル、本ステージ…

2010年06月24日 08時29分00秒 | 振り返ると

先週末は、大忙しの特派員でした。

土曜日の朝は、担当番組の放送があり そのエアチェックを。 引き続き、町内神社のお世話で 上期の大祓い式。

午後は、1時前から、近くの 総合文化会館で、芸能音楽祭のリハーサルに入り、夜9時前まで張り付いていました。

   

翌・日曜日は「芸能音楽祭」の本ステージで、午前10時過ぎに会場入りです。

音合わせなどの後、正午前には、軽めの昼食を済ませます。(喋る前には、満腹は避けます。)

〝我妻〟さんが撮ってくれる、ビデオカメラのセッティングを済ませます。

12時半に開場。 午後1時半には開演されました。 特派員の担当は司会です。 

出演する13団体は、およそ15分の持ち時間の中で、日ごろの練習成果を 発表しました。

コーラス、楽器・声楽、雅楽、琴、大正琴、詩吟・吟詠、剣舞・詩舞、歌謡曲、民謡、ダンシング(ジャズやロック)など。

バラエティーに富んだ内容が、およそ4時間のステージに繰り広げられました。

参加した人々の、ステージ袖へ帰ってきたときの 笑顔は、充足感に溢れていました。

そして、今は、ビデオの編集作業を進めています。

 


寝台から、ドスンと…

2009年07月27日 15時27分45秒 | 振り返ると

昨日の投稿の後で…、思い出したことを ひとつ。

手術をして間もない頃、夜の病室での出来事です。

 

術後 しばらくの間は、お里(母の実家)の 祖父ちゃん(母の父親)が、付き添ってくれて居ました。

或る晩のこと、祖父ちゃんが、寝台 脇の床に敷いた布団で眠っていたところ、ドスン  と 音がしたそうです。

横を見ると、小3の特派員が 横たわっていたので、ビックリ

急いで、ベッドへ 抱え上げてくれたそうです。

 

自分では、グッスリ 寝込んでいて、全く覚えていません。

翌朝、聞かされたのですが、「嘘やろ~」の思いでした。

寝台には、手摺や 保護柵が無かったのです。 

 

「〝とく(特)〟の 傷口が、開かんで いかった(良かった)」 と、祖父ちゃんが言っていました。

このことを思い返すと、今でも、傷跡が むず痛くなります。

 

 


入院中は、スイカ(西瓜)を買ってもらえなかった 子どもの頃… (明日は、スイカの日)

2009年07月26日 23時21分18秒 | 振り返ると

小学3年生のとき、大きな手術を受けて、長期入院した〝夏〟のことです。

真夏の7~8月は、術後の安静を要する頃で、子ども心にも、一番 辛かったです。

包帯を兼ねた 分厚い腹巻きをしていて、とにかく暑いのです。

ガーゼ交換も、辛かったです。

昭和30年頃、病室に 冷房は無く、扇風機も…記憶にはありません。

 

食事が、普通食に戻った頃、小さな 一切れのスイカが…病院食に出たことがありました。

スイカ大好きな 子どもだった 特派員は、大喜びでした。

 

術後は、毎週の休日に 見舞いに通ってくれた〝お袋さん〟に、その嬉しさを話したのだと思います。

次の休みの日、スイカを下げた〝お袋さん〟が、来てくれました。

電車を乗り継いで、片道1時間以上掛かる 道のりを、です。

 

家が貧しかったので、病院の真ん前にあるお店では、スイカを買えなかったのです。

田舎の 家の周りは農家で、〝お袋さん〟の実家も近かったので、畑から分けてもらって、運んでくれたようです。

暑さの中を持ってきたので、冷たくはありません。 でも、病室の人たちの分も切り分けて、美味しく食べた…スイカの思い出です。

 

今では、冷蔵庫でよく冷えた、甘~いスイカが食べられます。

幸せな時代に〝感謝〟です。 辛かった頃があって、ことさらにです。

 

 


村の 電気屋さん…

2008年01月12日 23時01分41秒 | 振り返ると

田舎の村には 一店だけ、電気屋さんがありました。

木造の、小さなお店でした。

50年余り前の、昭和の町村合併 以前の、昔のことです。

電球や懐中電灯、乾電池、ヒューズなどを買いに行った記憶があります。

もちろん、ラジオも有ったでしょうが、特派員には高嶺の花でした。

電気屋さんと言えば、ナショナルのお店しか 知らなかった頃のことです。

 

中学校へ通う頃には、町に、ナショナルのほか、日立、東芝、三洋の電気屋さんがあることを 知りました。

 

その後は、携帯ラジオ、テレビ、ラジカセ、冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ…と、自分の成長と共に、購入する品物も 大きく・高額なものになりました。

しかし、最近は、郊外型の家電量販店が 相次いでオープンし、町の電気屋さんは 大いに打撃を受けていたことと思います。

そんな折、Nationalブランドが無くなるとの報道がありました。

今後は、並列的に使われていたPanasonicに絞られるようで、「♪明るい…」 のCMソングも聞かれなくなると思うと、寂しさが込み上げてくる 特派員です。

 


父親の顔…

2008年01月10日 10時52分02秒 | 振り返ると

病気で臥せったまま、35歳で逝った父。

特派員が、小学校へ入る年の 2月だった。

遊んでもらった記憶は、全く 無い。

 

何故か、背もたれのある ふんわりした椅子に座り、キャラメルの箱を手にした 自分が思い出される。

それも、極めて 断片的に。

後ろ向きに膝で座り、背もたれの上で 箱を滑らせていた…ことも。

昔、NHKラジオの「私は誰でしょう」に出場した 父。 「第二ヒントで正解した」と、大きくなってから 母に聞かされた。

多分、そのときの、待っている間の 記憶のようだ。

ラジオを聞いているときの 父は、いつも 第一ヒントで当てていたらしいく、きっと、自信があったのだろう。

 

僅かに残された モノクロームの写真が、「父の顔を覚えている」と、錯覚させている。

50回忌には、その中から選んだもので、額装の写真を作った。

特派員が、五十路の半ばになったときだ。

今、その写真は、座敷の壁の高いところに掛けてある。

祖父の それと並んで、見守ってくれているのだ。

 


(>_<) アラーム音の 耳鳴り…???

2007年07月14日 18時22分58秒 | 振り返ると

顔面麻痺が、ほぼ回復してきた頃から、左側の耳で、「ピー、ピー、ピー …」といった アラーム風の音が、聞こえるようになった。 周りが、静かなときに。 顔面が麻痺していた方の、耳だ。

最初は、腕時計の目覚まし音や、電子機器の警報音か?と、辺りを探してみたが、音源が特定できない。

外で鳴る、トラックの バックの際の 警告音か?とも思ったが、窓を開けても大きさが変わらない。

いろいろ 思いあぐねた上で、心拍と 同じテンポだと 判明した。

力んでみると、「ピーーーー」 と、連続音になることも分かった。

身体の角度を変えてみると、音がしなくなることもある。 

普段は、まったく気にならない 大きさなので、今は、そのままにしている。

 


v(^^) 顔面麻痺、通院終了…

2007年07月01日 12時25分41秒 | 振り返ると

先週(6月29日)、病院へ行ってきました。 初診からお世話になっている、脳神経外科の病院です。

用事は、薬の相談でした。

ドクターは、特派員の「表情や発音」をチェックした後、「回復が早かったですね。 このまま行けば、もう、通院しなくても良いですよ。」と おっしゃいました。

そして、「薬(ビタミンB系)は即効性のものでなく、残りのが無くなれば、その後は、服用しなくても 良くなります。 後は、自主リハビリで対応できますよ。」と、診断してくださいました。

鼻下線の傾きが、ほぼ、回復。(6/30)

 

未だ、左側の唇と 鼻の脇の 縦のラインの一部に、軽い違和感が残るものの、何となりそうです。

自分流のリハビリは…、

動かし難い部分を中心に、肩や首から上の筋を含めて、繋がるところを意識的に動かします。 ドクターから指示された「回復する神経の 伸びを迷わせないように…」気を付けながら、です。

「回復には、およそ2ヶ月」と 予見くださった、セカンドオピニオンの、耳鼻咽喉科の 女医さんと その説明に、敬意を表しながら、それらを励みに、自主リハビリを進めます。

発症以来、一ヵ月半。 嬉しい7月を、迎えることが出来ました。

 


(-_-;) 麻痺発症から 6週間…

2007年06月23日 10時38分45秒 | 振り返ると

5月15日の、「左顔面麻痺」発症から、6週間が経過しました。

麻痺は、ピーク時に比べると、随分、回復してきました。

例えば、左目でのウインクが出来るようになりました。 単独では、まったく動かせなかったのですから、回復の度合いには、感激です。

薬の処方は、ビタミンB系のみを 毎食後の服用なので、忘れることも無く、続けています。

もう一つ、続いていることがあります。 〝禁酒〟です。

初診の際に、病状はもちろん ステロイド系の薬の処方と相俟って、アルコールを禁止されました。 以来、現在まで、一滴も飲んでいません。 孫娘たちと、家族で焼肉を食べに行ったときも、です。

元々、飲めない人…なので、苦にはなりませんが、寂しさは 有ります。 最初は、「飲めないことでストレスが溜まり、麻痺の症状が悪化するのでは?」と、冗談めかして言っていたことが、懐かしいです。 (でも、たまには、風呂上りの一杯を、飲みた~い。)

今は、簡単なリハビリを、無理せず・慌てずに、不自由な部分を中心に行っています。 特に、左の唇のは、発音練習を兼ねています。

周りの人は、「気にならない」と言ってくださるのですが、本人は「ma、ba、pa」の 発音に、納得していません。 この クリアーが、当面の目標です。