気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

紫野大徳寺23 大徳寺三門(金毛閣)

2023年12月16日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2023年5月24日、水戸の友人U氏と大徳寺へ行きました。京都春秋が開催する、大徳寺本坊伽藍の特別公開が目的でありました。特別公開期間は4月27日より6月4日まででしたが、U氏の希望で5月下旬に計画していたものでした。

 

 大徳寺の山門は周知のように東にありますが、U氏はなぜか上図の「中門」と呼ばれる南側の門から入るのが好きで、いつも北大路通に面したこの門から入っては「また大徳寺にやってきたなあ」と感慨にひたるのでした。

 

 今回の特別公開では、ふだんは公開されていない本坊伽藍の諸堂宇が対象となっていました。上図の三門(金毛閣)や仏殿、法堂などは普段は外から見るだけで建物に近寄ったり中へ入ったりすることは出来ませんから、稀有の機会といえました。
 それで、2月の時点でその特別公開情報を知ったU氏が「絶対に行く。万難を排してでも行く」と言ったのは勿論、私自身も初めてのことでしたから、とにかく見にいかねば、と楽しみにしていました。

 

 特別公開の時間までまだ間があるので、とりあえず三門を見ました。現在の建物は、応仁の乱で焼失した後、大永六年(1526)に一休和尚参徒の連歌師 宗長の寄進により、初層部分が完成されました。その六十年後に、千利休によって二層部分が完成し、金毛閣と名づけられました。

 楼上は広い一室で、釈迦如来像と、二大弟子像、さらには千利休が寄進した十六羅漢像が安置されています。天井や柱には長谷川等伯による雲竜図や迦陵頻伽(かりょうびんが)、仁王像などが一面に描かれていています。この楼上に草鞋を履いた利休像を安置したことで豊臣秀吉の怒りを買い、利休の切腹の一因になったことは有名です。

 今回の特別公開で、その金毛閣の楼上に入れるのかなと期待していましたが、案内チラシを見ると、「三門下をくぐり間近で拝観する機会をご用意しています」とのことでした。U氏が「なんだー、利休の草履の下をくぐるだけか」、とガッカリしていました。

 

 近くに立ててあった特別公開の案内看板です。御覧のように特別公開は10時からとなっていました。私たちが大徳寺に到着したのは9時37分でしたから、23分の待機時間があったわけでした。

 

 ですが、ただ待機するのではなく、特別公開の手続きをとって拝観料2000円を支払わないといけませんでした。どこで手続きしてるんだ、とあたりを見回して探しているU氏に、上図の「茶所」と呼ばれる建物を指して「あれや」と教えました。

 

「茶所って何かね」
「今でいうと参拝者休憩所やな」
「なるほど」

 ということで手続きをして拝観料を払い、番号札を渡されました。どうやら、時間毎に人数を限定して入場して、案内人に率いられて解説を聞くツアー形式であるようでした。

 

 私たちが最初の団体であったようで、番号札の1番から30番までが呼ばれました。U氏が22番、私が23番でしたので、列に連なって上図の臨時出入口から本坊伽藍の区域内に入りました。

 

 まず三門の南側で解説を聞き、それから門をくぐりながら建物の細部などを紹介され、背後に抜けて門の脇などへ回って見学しました。なので、上図のアングルなどは、普段の外からの撮影では撮れません。

 

 次の仏殿に向かう途中で、後ろを振り返って三門を北から撮りました。このアングルも普段の参拝では撮影出来ませんので、いい絵が撮れたな、と感動しました。門口の向こうには、次の30人が南側の勅使門裏で解説を聞いている様子が見えました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く35 その12  矢木羽湖公園

2023年12月15日 | ゆるキャン△

 増富の湯を出て県道23号線を西下してみずがき湖の南を過ぎ、須玉町の俵生より茅ヶ岳広域農道に入りました。この茅ヶ岳広域農道は、原作コミック第13巻58ページに登場する茅ヶ岳東部広域農道のモデルで、志摩リンがビーノで山梨市目指して走った道にあたります。

 それで、作中と同じように志摩リンが立ち寄った公園へ行きました。上図はその公園の東側の駐車場です。奥に私が停めたレンタカーが見えます。

 

 公園の正式名称は、御覧のとおり、矢木羽湖公園といいます。原作コミック第13巻の第72話の表紙、および59ページから61ページまでに登場し、志摩リンがツーリングの途中で立ち寄って散策するシーンが描かれます。

 

 原作コミック第13巻の第72話の表紙のアングルです。あfろ氏の原画は例によって広域ワイドの魚眼レンズ風に広い範囲が描かれますので、実際の見え方とはちょっと異なります。

 

 この湖が矢木羽湖です。一帯は敷島総合公園の「甲斐梅の里公園」のエリアとなっており、そのメインに位置します。実際は農業用の貯水池なのですが、隠れた桜の名所として知られるそうです。夏なので分かりにくいですが、向こうの岸辺に並ぶ木が全て桜です。志摩リンの訪れた時には満開であったようです。

 この湖は、元々は「後沢ため池」という名前で戦前に造成された湖でしたが、敷島総合公園内に含まれることになって1999年に公募がなされて矢木羽湖(やぎはこ)の愛称が付けられたそうです。

 

 原作コミック第13巻61ページ4コマ目のアングルです。公園にいた数匹の猫に逃げられた志摩リンが「やっぱり犬のほうがいいや・・・」と駐車場へと戻って行く場面です。

 

 志摩リンが散歩した湖畔の道は、上図のとおり「せせらぎの小径」と名付けられています。

 

 このあたりでしょうか。原作コミック第13巻59ページ4コマ目のアングルは・・・。

 

 農業用貯水池であることは、湖の周囲に沿って水路が引かれていて、上の農地から繋がっている様子からも分かりました。その水路を散策路がまたぐ場所に上図のような橋がかかっていますが、作中では描写がありません。

 

 志摩リンが歩いた湖畔の道は、このように内側に水路が通っているのですが、水が枯れていて低い道のようになっています。水が流れることはあるのだろうか、と思ってしまったほどに、水流の痕跡がどこにも見当たりませんでした。

 

 散策路の一番奥、湖の北側にあたる場所は上図のように「富士見の苑」となっています。実際に富士山が見える眺望の良い地点です。桜の時期には花見と富士見が楽しめるわけです。富士山は霞んで見えましたが、写真を撮り忘れました。

 

 矢木羽湖には13時55分まで居ました。この日の巡礼コースのラストスポットでしたので、あとは甲府駅前へと戻るだけでした。公園の東の県道101号線を南下して県道6号線、県道106号線経由で甲府駅前へと移動し、ガソリンを補給した後にタイムズさんに返却しました。

 かくして甲府駅に着いたのは14時35分でした。ちょっと空腹感を覚えたので、駅南口の吉野家に寄って鮭定食をいただきました。

 

 帰りは中央線まわりで行く予定であったため、15時26分甲府発の上図のあずさ29号に乗って塩尻まで行き、17時3分発のしなの20号名古屋行きに乗り換えて帰路につきました。名古屋からの新幹線で京都に着いたのは19時51分でした。

 以上で、この日の巡礼ルートの報告を「みずがき編」として括って終わります。二泊三日で三峰神社と滝沢ダム、雁坂みちルート、瑞牆山ルートを回るというハードスケジュールでしたが、雁坂みちのラストの万力公園にて夕立に降られた他は快晴に恵まれましたので、なんとか無事に全コースをクリアして終えることが出来ました。

 これで山梨県エリアのゆるキャン聖地巡礼は、来年2024年度までしばらくお預けとなります。次のゆるキャン聖地巡礼は、舞台を愛知県エリアに移します。  (了)

 

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ヴァイキング水産高校 M24チャーフィー軽戦車 作ります!! その1

2023年12月14日 | ガルパン模型制作記

 私のガルパン車輌製作の第152作目は、上図のヴァイキング水産高校チームのM24チャーフィー軽戦車にしました。最終章の無限軌道杯第1試合にてプラウダ高校チームと対戦して敗れたチームの、3種類の車輌のうちの1車種です。あとの2車種はⅢ号戦車J型とノイバウファールツォイクですが、いずれも既に製作を終えていますので、今回のM24チャーフィーがラストとなります。

 

 M24チャーフィーは、周知のように劇場版にて大学選抜チームの車輌として参戦しています。今回のヴァイキング水産高校チームの車輌は、公式設定資料図によれば、大学選抜チームの車輌と同じ仕様であるようです。異なるのは車体色と校章マークだけになります。

 

 M24チャーフィーの適応キットは、タミヤの品が一般的に知られていますが、劇中車の仕様に最も近いのは上図のAFVクラブの品です。ガルパン仕様への改造および修正も最低限におさえられて作業効率も良さそうなこのキットを、二年ほど前に中古ショップで見かけて確保してありましたが、今回ようやく製作にとりかかりました。

 

 中身です。パーツ数は多くもないけれど少なくもない、といったAFVクラブの平均的なボリュームですが、パーツの合いは非常に良く、タミヤ並みの取扱い易さ、組み立て易さに定評があります。私自身もAFVクラブの製品はこれまでに3点作っていますが、いずれも組み立て易くて苦労がありませんでした。今回のキットも同じだろう、と予想しました。

 

 組み立てガイドです。表紙の案内文は、英語と日本語と中国語とで書かれますが、台湾のメーカーらしく中国語は北京語ベースの台湾華語(台湾の公用中国語)で書かれています。

 

 ステップ1では、下部車体の足回りの軸部を組み立てます。ガイドの指示通りに組んでゆきます。

 

 ステップ1の組み立て前のパーツ類です。

 

 組み上がりました。

 

 車体前面部左右に合わせ目の溶接痕のモールドがありますが、劇中車には見られませんので、ヤスって消します。

 

 ヤスって消した後の状態です。

 

 ステップ2でも、引き続き下部車体の足回りの軸部を組み立てます。ここからガルパン仕様への変更が始まります。前部の牽引フックは劇中車にありませんので、パーツD17およびD18は不要となります。牽引ホールドの基盤であるD11およびD12も劇中車にありませんので、付けないでB14だけを取り付けます。

 

 ステップ2で取り付けるパーツ類の一部、B42とB43です。小さなパーツなので、切り出した後は紛失しないように皿にまとめておきました。

 

 B42とB43を組み付けた状態です。今回の車輌はサスペンションが割と複雑な形状なので、パーツも細かく分かれていて組み立ての手間もちょっとかかります。米軍の戦車で足回りの組み立てに手間取るのは珍しい気がします。  (続く)

 

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牛尾山法厳寺 下

2023年12月13日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 法厳寺本堂の前庭に設けられた、参拝客および特別公開見学者のための休憩所テントにて、住職らしき僧形の方から冷たいお茶をいただきました。嫁さんが「ここの住職様ですか?」と尋ねると、僧形の方は「そうです」と答えました。その横で色々と手伝っている若い女性は、どうやら住職の娘さんのようでした。

 その娘さんが、上図の建物を指差して「あちらでもお休みいただけますんで、どうぞごゆっくり」と話しかけてきたので、嫁さんが「あれは庫裏ですか、僧坊ですか」と訊くと、「まあ庫裏の客殿みたいなもんですけど」と答えてきました。外観的にはかつての修行僧や修験者が泊まる宿坊を兼ねた建物だろうな、と推察しました。

 この法厳寺は、もとは天台宗に属したようで、その流れで天台宗系の修験道であった本山派の拠点寺院としての歴史を刻んだようです。本山派は、明治維新後の神仏分離令および明治五年(1872)の修験宗廃止令によって、天台宗に強制的に統合される形で消滅していますが、本山派の中心であった聖護院(京都市東山区)はこの一連の措置に反発し、結果的には第二次大戦後に本山修験宗として再び独立し、現在に至っています。
 その流れに法厳寺もならったようで、現在は聖護院を本山と仰ぐ本山修験宗に属しています。

 

 つまりは法厳寺は、音羽山系を統べる山岳修験の中心的寺院として、かつては多くの遊行の聖や修験者が行き来して山頂での修行などに励んだ霊地であったわけです。その歴史は、本堂の右手後方の山裾にいまも祀られる経塚(きょうづか)などに象徴されています。

 経塚とは、経典を土中に埋納した塚のことです。これの造営は仏教的な作善行為の一種とされ、経塚造営に関する一連の供養、儀式を埋経(まいきょう)といいます。平安時代に流行し、担い手の多くは廻国聖(かいこくひじり)と呼ばれた遊行の聖や修験者であったそうです。

 

 嫁さんが「じゃあ、この地面の下にはお経が埋められているの?」と訊いたので、「そういうことになるな、後に掘り出したりしてなければな」と答えました。

「じゃあ、もし発掘とかやって遺品が出てきたりしたら、文化財に指定されたりするの?」
「経塚の遺品はだいたい平安期から鎌倉期のものが多いからな、今までに発掘で検出確認された遺品はたいてい文化財指定を受けてるな」
「ふーん、貴重な歴史的遺産なんですねえ」
「有名なのは、奈良吉野の大峯山寺の経塚遺品やな。藤原道長が寄進造営したもので、現在は国宝になってる」
「国宝があるのかあ、重要文化財のもいっぱいあるんでしょうか」
「ああ、全国各地にある」

 

 経塚の奥には上図の「金生水」と呼ばれる湧水が霊水として祀られています。法厳寺の縁起によれば、寺の開基とされる延鎮(えんちん)が、霊夢により金色の水源を求めて辿りついた場所であるとされています。

 その延鎮に関して住職が簡単に説明していた時に、嫁さんは「えんちん」を円珍のことだと思ったようで、「天台宗の寺門派の始祖のあの人?」と小声で私に訊きました。
「いや違う、別人や。読みは同じやが、こっちの方は漢字で書くと延長の延、鎮守さんの鎮や。清水寺の開基でもある」
「あっ、清水さん(清水寺)の開基さんなのか、こちらにも来ていたから、ここが清水さんの奥ノ院になったのね」
「厳密にはちょっと違う流れかもしれんが、伝承的には、そういうことになっとるわけやな」

 

 「金生水」の湧水は本堂の背後に掘られた井戸に集約されているようで、上図のように閼伽井の体裁に整えられて覆屋が設けられています。開基延鎮ゆかりの霊水ですから、寺でも大切に守っているのでしょう。

 ここで補足しておくと、延鎮は大和国出身でもとは法相宗に属した僧であります。奈良吉野山の山岳修行者であり子嶋寺の開基となった備前国の報恩法師の弟子となり、後に宝亀九年(778)に京都東山にある乙輪山(音羽山)に移りました。延暦十七年(798)に坂上田村麻呂は乙輪山に山荘を作り、その山荘を寺にするべく延鎮を開山として招きました。その寺が現在の清水寺です。

 法厳寺の縁起にみる法厳寺の創建伝承は、清水寺のそれとほぼ同じで音羽山の山名も一致しています。したがって、実際には天台宗の大拠点であった清水寺が教線を拡大した時期に、周囲の山岳霊地を支配下に置くなかで天台宗本山派の修験者が山科にも進出して牛尾山に入り、ここに法厳寺を創設して拠点として整備し、清水寺の山号と縁起をそのままコピーして奥ノ院となしたのが始まりではなかったか、と思います。

 

 なぜそのように考えるかというと、法厳寺の位置がいわゆる古代、中世における「境目の寺」に該当するからです。現地は現在でも京都府と滋賀県の県境にあり、つまりは山城国と近江国との境目にあったわけです。

 天台宗は平安京を完全に宗教的支配下において皇室権門の信仰を一手に集めるべく、山城国の四方の国境に拠点寺院を整備し、比叡山を鬼門の守護と位置づけました。そのうえで東山にある清水寺、近江の園城寺の両方に連絡出来る山岳寺院を求めて牛尾山に着目し、北麓の東海道をおさえると同時に南麓の近江から伊賀への交通路をも掌握していったのではないか、と思うのです。

 その場合、牛尾山の法厳寺は絶好の適地に位置して、滝行などの昔からの山岳修行場であった環境が活かせることになります。それで、寺を創設するにあたっては、現地の宗教施策上の重要性にかんがみ、清水寺の後方にあたる地理関係が考慮されてその奥ノ院として整備されることになったのだろう、と推察しています。

 清水寺の奥ノ院としておまつりするのですから、創建にまつわる事情は原則的に清水寺のそれが援用されることになります。現在の音羽山の名も、おそらく東山の音羽山から持ってきたのでしょうし、音羽山の旧名ともされる牛尾山の名が今に伝わっているのも、もともとの山名が牛尾山であったからであろう、と個人的に推測しています。

 上図は本堂です。江戸時代の建物で、平成30年に京都府の暫定登録有形文化財に登録されているそうです。

 

 住職の案内で、他の数人の参拝客とともに本堂にあがりました。本山修験宗の寺院だけあって、内部の調度や什器類が密教系の雰囲気にみちたものばかりでした。山岳修験の御堂を彷彿とさせる内部空間でした。

 

 特別公開されていた本尊の十一面千手観音立像です。清水寺の本尊と同じ尊像で、厨子におさめられ、その両側に不動明王像と毘沙門天像が侍立しています。天台宗寺院によく見られる「観音・不動・多聞」の三尊安置形式です。その三尊が安置される須弥壇の四方の柱には曼荼羅の主要尊像が描かれて密教の世界観を立体的にみせています。

 

 さらに本尊の厨子は、驚くべきことに、古代の建築様式の要素もとどめた宝殿形式の珍しいものです。屋根下の垂木が放射状に広がる点や、四隅の尾垂木の先端が屋根の上に蕨手状に丸くなる点は、飛鳥時代の建築にみられる特徴です。厨子そのものの年代は中世期とみられますので、こうした古代の宝殿形式の姿は何らかの古代遺品をモデルにしたのだろうと思われます。

 その意味で、江戸時代の地誌「都名所図会」などがこの本尊像を天智天皇の手彫りと伝え、飛鳥時代の天智二年(663)の白村江(はくそんこう)での敗戦後、天智天皇が近江大津宮に遷都した際に刻んだ像がのちに寺に移された、とするのは何らかの歴史的背景が介在した可能性を思わせます。

 

 ですが、厨子内にまつられる本尊のの十一面千手観音立像は典型的な藤原時代の作風を示しています。飛鳥時代に天智天皇が近江大津宮に遷都した際に刻み、のちに寺に移されたといわれる像には該当しないことが分かります。

 つまり、飛鳥様式の余香を伝える古代宝殿形式の厨子とはミスマッチであるわけですが、しかし、ただのミスマッチとも思われないな、というのが正直な感想です。なにか今では失われた、もしくは秘められた歴史があったのかもしれません。

 

 たまたま、住職と若い学生とみられる見学者の方が、有り難いことに、参拝客のために本尊像を懐中電灯で明るく照らし出して下さいました。撮影OKと伺っていたので、その直前からデジカメの望遠モードで暗い厨子内を覗いていましたが、たまたま懐中電灯で明るく照らされたので、思わず撮りました。同時に、本尊像の制作年代も分かりました。

 

 嫁さんが一緒にスマホで撮っていて、画像を再生して「綺麗なお顔ですねえ、平安時代の仏さまですねえ」と感動していました。その通り、平安時代の後期つまり藤原時代の作です。絞り込めば、十二世紀の前半期になるかな、と個人的には拝察しました。

 清水寺の本尊の十一面千手観音像は、2000年の33年毎の特別開帳で拝観した限りでは鎌倉期以降の作に見えましたので、奥ノ院のこちらの本尊像のほうが古い遺品であることになります。現時点では未指定ですが、各所に痛みがみられるとのことで、保存修理措置を含めての文化財指定が急がれていると聞きました。

 その後、住職が本堂の手前の右側に立つ護摩堂に参拝客一同を案内し、本尊の不動明王坐像も公開してくれましたが、そちらのほうが痛みが激しく、後補部分が多かったので、そちらも保存修理措置が必要だなあ、と感じました。ただ、像そのものは本尊像よりも古い作風を示しているので、個人的には、十一世紀に遡るだろうか、と推測しました。

 以上で法厳寺の特別公開の見学が終わりました。初めての隠れ古寺に来られて楽しかった、大満足ですー、と笑顔で参道を降りていく嫁さんの後に続いて、行きにさんざん苦労した長い参詣道を、約1.5キロ先の麓のバス停までひたすら降りていったのでした。  (了)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く35 その11  瑞牆山荘から増富の湯へ

2023年12月12日 | ゆるキャン△

 瑞牆山荘は、本来は瑞牆山への登山客が宿泊で利用する施設であるそうで、いわゆる山小屋の一種ですが、カフェレストラン「カフェ・モンターニュ」を併設しています。
 なので、本来の玄関口は宿泊棟のほうに付いており、一度そちらから入ってみました。

 上図のように玄関口を入ると正面に販売コーナーがあり、右に折れて進むとカウンターがあります。カウンターの右側の扉はカフェレストランへの出入口になります。このアングルで原作コミック第12巻2コマ目にそのまま出てきます。

 

 このシーンですね。例によってあfろ氏特有の広域魚眼レンズ風ワイドビューの描写で横の販売コーナーの一番左側の棚までが描かれています。

 

 実際の販売コーナーです。作中の描写とほぼ同じで、棚の上の壁面に瑞牆山荘オリジナルシャツが並べて掛けてあるのも一緒でした。お酒も何種類か売っていました。宿泊客が飲むのでしょう。

 

 カウンターの横の壁面に掛けられた「瑞牆山荘」の額。右から読むので、戦前の古いものなのかな、と思いました。

 

 カフェレストラン「カフェ・モンターニュ」に戻って昼食をいただきました。手ごねハンバーグ定食でした。1800円なり。ちなみに「モンターニュ」とはフランス語で山を意味します。山のカフェ、ですね。

 

 これはマジうま!おすすめですよ。大垣千明たちが食べていたアイスもあったのですが、この手ごねハンバーグ定食で満腹になりまして満足しましたので、アイスはやめておきました。

 瑞牆山荘には約一時間居て、12時40分頃に出発しました。再びクリスタルラインをたどりましたが、今度は下り坂が多くなり、渓流に沿って青々と燃える緑のトンネルの中を20分ほど走りました。
 その途中に、目をみはるほどに綺麗な自然の景色が幾つかあったのですが、ずっと細い林道を走っていて停めるスペースも無かったため、写真も撮れずに通り過ぎてしまいました。

 

 13時直前に、上図の増富温泉郷の公衆温泉施設「増富の湯」に着きました。大垣千明、犬山あおい、斉藤恵那の3人がみずがき湖から山を越えてここに到達し、素早い入浴の後、ここから瑞牆山荘へのバスに乗り込んでいます。

 

 このアングルで原作コミック第12巻86ページ3コマ目に出ています。

 

 このシーンですね。バスが来るまで残り10分・・・って、走って飛び込んで、わずか7分で入浴を終えたようですが、実際には無理だと思いますよ。私自身が温泉に行くと、手続して脱衣して浴室に入って先ずかけ湯をして、それで7分がたちますよ・・・。

 

 増富の湯は、実際には上図のように今年の4月1日から休業となっています。北杜市の要請により、設備老朽化に伴う点検及び改修工事を行うとのことで、当面の間は全館休業中、とのことです。
 ですが、夏の時点で改修工事とかを行なっている気配がありませんでしたから、長い休業になるようです。  (続く)

 

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(車輌目次表紙)サンダース大学付属高校 M4A1シャーマン76mm砲搭載型

2023年12月11日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  プラッツ/アスカモデル 公式キット (商品コードGP-53)

  制作期間   2022年5月10日~5月13日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 その6 完成です!!

  総評・備考
 サンダース大付属高校チームは3種類のシャーマン戦車を運用しているが、アリサが搭乗するM4A1は車体を全て鋳造とする唯一のタイプである。主砲は75ミリと76ミリとに分けられるが、劇中車は後者に該当して攻撃力が大きい。防御性も鋳造車体ゆえの避弾経始効果により優れており、劇中でも何度か打たれ強さをみせている。
 その1/35スケールキットはシャーマンシリーズの中では稀少に属するものの、公式キットがイタレリ製品(下のキット一覧の1)とアスカモデル製品(下のキット一覧の2)の二種類発売されており、いずれも適応キットの採用によっている。今回は劇場版仕様にて製作したが、必須のペリスコープガードのパーツは公式キットにも適応キットにも無いため、他キットからの転用もしくはアスカモデルのパーツセット(商品コード35-L40)の調達が必要となる。イタレリ製品で作る場合は改造箇所も少なくないので、初心者クラスはアスカモデル製品を選んでおくのが無難であろう。
 今回はそのアスカモデル製品(下のキット一覧の2)で製作したが、劇場版仕様のキットなので、ペリスコープガードのパーツが必要となった。手元にあったドラゴンのジャンクパーツを使用した。

  公式および適応キット一覧(2023年12月現在) 黄帯が今回の使用キット  


目次へ

 

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牛尾山法厳寺 上

2023年12月10日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2023年5月4日、嫁さんの提案で、山科区の音羽山(おとわやま)にある法厳寺を訪ねました。令和五年度の春季京都非公開文化財特別公開の対象寺院に含まれた初公開の寺院であったため、嫁さんが「一度行ってみたい」と言い出したのが事の発端でした。

 4月23日に因幡薬師堂こと平等寺の特別公開に行った翌日の夕食の準備時に、「あともう一ヶ所、どこか行きたいですねー」と嫁さんが言い出し、冷蔵庫の扉に貼ってある令和五年度春季京都非公開文化財特別公開の案内パンフレットを指差して、「例えば・・・この法厳寺って、知ってます?」と訊いてきました。この時は、嫁さんの横で春菊を茹でて塩麹とすりごまを和える最中でしたが、「法厳寺?」といったん手が止まりました。

「・・・ええと、ああ・・・、音羽山の牛尾の法厳寺やな」
「やっぱり知ってますねえ、音羽山ってことは清水さん(清水寺)の近くにあるんですか?」
「いや、これは山科区の音羽山のほうや。平安時代に紀貫之とかが歌枕に詠んでた山やな。その山の続きに牛尾山というのがあって、その山頂近くにある。京都でも稀な山奥の隠れ古寺やな」
「あっ、隠れ古寺、それめっちゃ素敵過ぎません?そこ、一度行ってみたい」

 ということで、地下鉄で山科駅まで行き、京阪バスに乗り換えて「小山南溝町」バス停で降り、バス停のすぐ北の交差点で右折して、牛尾道と呼ばれるかつての参詣登山道を約1.5キロほど登って、上図の「桜の馬場」と呼ばれる広い駐車場付きの平坦地に着きました。

 この「桜の馬場」までは車道が通じているので車でも登れますが、途中の音羽川渓谷に幾つも滝があって綺麗な景色が多いため、嫁さんが「歩きながら滝とか見たい」と希望して徒歩での登拝となりました。
 かつて京都に三ヶ所所在したとされる「音羽の滝」のうちの一ヶ所が、この牛尾道の途中にあり、現在は「牛尾の音羽の滝」と呼ばれて親しまれています。落差は約6メートル、音羽川渓谷にある十数ヶ所の滝の七番目か八番目ぐらいに位置しています。

 

 「桜の馬場」は法厳寺の門前広場にあたります。そこが総門というか、参道入口にあたっていて、脇には上図の案内看板がありました。

 貼り紙から分かるように、実は法厳寺の特別公開は4月17~21日、4月29日~5月7日までとなっていたところ、4月30日に土砂崩れや倒木が発生して、いったん中止になっていました。ですが、今回は遠方からも拝観を楽しみに来られる方も多いことから、本堂の御本尊のみの公開で拝観料無料、という措置がとられました。

 

 そのことは、上図の急遽手書きで追加された貼り紙にもありました。嫁さんが「本来は絵巻物とかも公開する筈やったらしいですけど、でも本尊の仏様が拝めるんなら、充分じゃありませんか。ね?」と、嬉しそうに言いました。

 

 ですが、嬉々として周囲を見回し、春の小鳥のさえずりに耳を澄ませ、参道の階段や石碑などを元気に指差してはしゃいでいた嫁さんとは対照的に、こちらはヘロヘロ状態でした。なにしろバス停からのきつい登り坂をえんえんと一時間余りも登ってきたのですから当然でした。嫁さんとの二十六歳もの年齢差を改めて感ぜずにはいられませんでした。

 ですが、ここからが寺への長い長い登り道の入口になるのでした。あと20分ぐらいはきつい登り坂をたどることになるか、とため息をつきつつ、ペットボトルのお茶を飲みました。嫁さんも隣で同じように飲んでいて、事前にネットで調べた法厳寺の情報をプリントアウトしたものを読んでいました。

 

 10分ほど休んだ後、参道を登り始めました。途中の左手に上図の大きな龍らしき彫刻が横たわっていました。嫁さんが「建物の部材か何かかな?」と言いましたが、私も初めて見るので「さあ?」と応じただけでした。

 

 参道が右にぐるりと曲がる辺りで上図の「黒門」と呼ばれる門の前に付きました。ここから階段になりますが、右に曲がるスロープの道もぐるりと回って最終的には階段の参道に合流しますから、どちらを進んでも法厳寺境内地には着くわけです。
 どちらへ行くか、と訊くと、嫁さんは真っ直ぐ「黒門」の階段を指差しました。正式な参詣ルートですから、当然といえば当然でした。

 

 しかし、「黒門」からの階段は御覧のように長く、急な登りですから、こちらの足取りは再びのろく、重くなってきて、呼吸も鼻から口に変わってしまいました。嫁さんが「ちょっと休みましょう」と私の腕をとり、一緒に階段に座りました。他に参詣者は見当たりませんでしたから、道をふさいでいても問題はありませんでした。

 再びペットボトルのお茶を飲んでいると、「そういえば、ここに初めて来られたのはいつなのですか?」と訊かれました。
「ええと、平成十二年やったかな、西暦だと2000年。清水寺の本尊の33年毎の公開の時や。その本尊を拝観して、その時に水戸の上田と清水寺の奥ノ院にもついでに行こうと相談して、ここへきたけど、当時は非公開やったからお堂の前でお参りしだだけやった」
「そうなんですか、すると23年前ですか・・・」

 

 その、23年前に登った時とは、参道筋の景観が激変していました。鬱蒼とした竹林が無くなって、倒竹が散乱し、御覧の通りに参道が明るく照らし出されていました。

 聞けば、2013年9月に、嵐山を流れる桂川の氾濫(はんらん)をもたらした台風18号が、ここにも災害をもたらして約200段の石段や門が流失、寺とふもとを結ぶ牛尾道の山道も土砂崩れで寸断されたそうです。
 その後、道は国の災害復旧支援を受けて復旧され、門は信徒らの協力で再建されましたが、境内の建物や寺宝などの文化財の老朽化は深刻となり、そのまま現在に至っているそうです。

 

 階段を登りきると、スロープの山道に合流しました。その合流点からスロープの山道を少し戻った所に赤鬼と青鬼が建っているらしいから見たい、と嫁さんが言うので、その場所まで行ってみました。合流点から約50メートルほどの地点でした。

 

 再び参道を登っていくと、上図の「牛尾山」の山号碑の立つ旧結界に達して境内地に入りました。脇には手水舎がありました。

 

 次いで左手に「大杉堂」と呼ばれるお堂がありました。上図の左が「大杉堂」です。その名の通り「大杉堂」の背後には大きなスギの老木がそびえていて、「天狗杉」と呼ばれ祀られています。

 伝承によれば、天平期の開山時に植えられたといわれ、現在は神木として扱われ、大杉坊大権現として信仰されています。高さは約30メートル、軒周りは約5.7メートルあり、樹齢は300年と伝わります。大杉坊とは天狗の名前で、この山の神であるそうです。「大杉堂」の正面の蟇股にも天狗の団扇が彫られてありました。

 

 法厳寺の本堂です。23年ぶりにここにやってまいりました。嫁さんが「ここが法厳寺ですか、ほんまに山奥の隠れ古寺ですねえ、雰囲気がとっても素敵です」と嬉しそうに言いましたが、私のほうはヘロヘロ状態に膝ガクガク状態が重なって、立っているのがやっとでした。気温もかなり高かったので汗だくになっていました。とりあえず、本堂の右手前に設けられた参詣客の休憩用テントとおぼしき白テントの下へ向かいました。

 

 テントにてへたばっていた私に代わって嫁さんが撮影した、法厳寺の案内説明板です。清水寺の奥ノ院であるとする伝承にも触れていますが、東山区の清水寺が連日の大混雑であるのに比べて、こちらは特別公開の期間中でさえも閑散としていて、参詣客は私たちの他には数名しか居ませんでした。清水寺の奥ノ院である、という点は一般観光客や海外からの観光客には紹介されていないからでしょう。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く35 その10  瑞牆山荘にて

2023年12月09日 | ゆるキャン△

 瑞牆山荘の臨時駐車場に車を停め、道をはさんで反対側にある上図の標識に再び近寄りました。確かこれも作中に出ていたな、と原作コミック第12巻を取り出してパラパラとめくって探しました。

 

 上図の右のコマでした。原作コミック第12巻96ページ2コマ目でした。一番上の「クリスタルライン」の文字が薄くなって消えかかっているところまで忠実に描かれています。
 そして左の3コマ目の景色も、同じ位置で実際に確かめました。

 

 このアングルですね。大垣千明、犬山あおい、斉藤恵那の三人が瑞牆山荘での休憩ののち、瑞牆山キャンプ場へと向かって歩いていったわけです。

 

 同じ位置で180度回って後ろを見ると、こういう景色でした。原作コミック第12巻96ページ1コマ目のアングルでした。

 

 このシーンですね。作中では3月21日となっていて、まだ寒い時期ですから周囲の木が枝だけになっていて視界が広がっています。

 

 ここ瑞牆山荘にて昼食休憩をとる予定でしたので、店先へと近寄りました。上図の標識を見て、ここが秩父多摩甲斐国立公園に含まれていることを初めて知りましたが、その次に現地の標高が1520メートルだと知って、みずがき山自然公園よりも高い所なのか、と驚きました。

 たぶん、これまで回ってきた各地のゆるキャン聖地のなかでは、最も標高が高い場所じゃないかな、と思いました。例えば朝霧高原ふもとっぱらは標高830メートル、三峰神社は標高1102メートル、身延山は標高1153メートル、ですから、ここ瑞牆山荘の1520メートルは最も高所でした。

 ですが、今回の次の次の聖地巡礼でさらに高い場所へ行きましたので、私のゆるキャン聖地巡礼の最高所の標高はさらに上がっています。

 

 瑞牆山荘の上図のテラス部分にカフェレストランへの出入口がありますが、作中では描かれていませんので、大垣千明たち三人は隣の宿泊棟の玄関から入っていることが分かります。

 

 私のほうはカフェレストランに入って昼食をとることにしました。

 

 この日のメニューは御覧の通りでした。一番下の「夏季限定冷やしとろろそば」が蕎麦好きの身にはたまらなく美味しそうに思えて、最初はこれにしようかと考えました。が、二番目の「手ごねハンバーグ」も魅力的でしたので、それに決めました。

 

 案内された席は、出入口を入って左側にありました。その席から左を見ると、上図のように宿泊棟との通用口とカウンターがありました。宿泊棟のほうにも出入口があって、作中ではそちらからのアングルが描かれています。

 

 注文した手ごねハンバーグのセットが運ばれてきました。私の席からは上図のように薪ストーブも見えました。薪ストーブのある家、薪ストーブで暖まる生活、というのにはちょっと憧れるところがあります。

 

 あれ、この薪ストーブ・・・、見たことあるな・・・。これも作中にあるのかな・・・。

 

 やっぱり原作コミック第12巻93ページ4コマ目に出ていました。そのまんまですね。左手に見える点も同じですから、もしかすると、大垣千明や斉藤恵那がアイスを食べていた席は、私のついた席と同じだったのかもしれません。  (続く)

 

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知波単学園 九七式中戦車(名倉車) 作ります!! その4

2023年12月08日 | ガルパン模型制作記

 ステップ12では砲塔を組み立てます。E5とE6の選択ではE5を選択します。機銃架のC12は後ろに向けてセットします。

 

 手始めにキューボラ部分を組み立てるべく、関連のパーツを準備して貼り合わせました。

 

 キューボラを砲塔に取り付けました。ハッチ類は全てピットマルチ使用にて開閉自在とします。

 

 ステップ11で組み立てた砲身を組み付けます。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ13では砲塔や雑具箱を取り付けます。左右フェンダー前端のエッチングパーツMA17、MA18は不要です。

 

 砲塔を仮にセットしました。一気に九七式中戦車チハ新砲塔型の外観が出来上がりました。

 

 右側フェンダーの後部に載せる雑具箱のパーツを組み立てました。

 

 右側フェンダーの後部に載せて取り付けました。

 

 これでステップ13の工程が完了しました。ドラゴンの車体にファインモールドの砲塔が載っていますが、前者のリベットが大きくて目立つのに対して、後者のは薄いモールドなので雰囲気が全然違います。日本軍戦車の外観上の特徴の一つであるリベットの突起感が良く出ているのがドラゴン、そうでないのがファインモールド、というように分かりやすい好対照を成しています。

 同じ九七式中戦車チハ新砲塔型のキットでも、ファインモールド品のほうは全体的に平板的でのっぺりした雰囲気があると言われますが、その評価が外れていないことが上図の対比によって改めてうかがえます。
 したがって、今回のドラゴンのキットのほうが九七式中戦車チハ特有の雰囲気をよく表現していると思います。サークルのAFV部会の大先輩の一人で日本軍車輌マニアのD氏が「チハのプラモはドラゴンが秀逸やから・・・」と話していたのにも、納得出来ます。

 

 ラストのステップ14では、履帯を組み立てます。この履帯もまた、日本軍車輌独特の質感と量感とをよく表していて、なかなかリアルに感じられました。それだけではなく、組み立て用の治具も付くので、上部のたるみ部分も治具に押しつけて指で曲げて付けることが簡単に出来ます。

 

 連結式履帯が苦手な私ですが、今回のキットに関しては苦労することなくスムーズに組み上がりました。前回の久保田車もそうでしたが、ドラゴンの日本軍戦車の履帯パーツはこんなに組み易いのか、と感心してしまいます。
 上図のように準備して、起動輪に巻き付ける部分、上部のワンパーツ、誘導輪に巻き付ける部分、下部のワンパーツ、の4つに分割して組み立てました。

 

 組み立てた後の4つのパーツの繋がりをチェックするために、車輪に巻き付けて仮組みした状態です。接着は塗装後に行ないます。

 これで塗装前の組み立てが完了しました。塗装作業は、前回に製作した九七式中戦車(久保田車)と一緒にまとめて行なう予定です。  (続く)

 

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ゆるキャンから始めたNゲージ その26  大井川鐡道井川線の客車を増備する 下

2023年12月07日 | ゆるキャン△

 鉄道コレクションの動力化にともなう不要車台を活用して井川線スロフ客車に改造する作業により、上図の通り、5両の客車と1両の平台車が仕上がった。

 平台車のほうは、極小サイズのミニカメラををセットしてカメラカーとする計画であった。しかし、川本氏の指摘によれば、現時点で出ている最少のミニカメラでも幅が2センチぐらいあるそうで、平台車から4ミリほどはみ出すことになり、ジオラマを作って走らせる場合は架線柱やトンネルに接触する可能性が高い、とのことでカメラカーの案は再検討を迫られることとなった。

 

 とりあえず、6両を繋いでみたが、上図のようになかなかの長さである。私の計画しているジオラマでは、駅のホームに入れるのは最大で5両までであるので、機関車を足せば客車は4両までが限度となる。それで3両ずつの2編成にするか、と考えた。

 

 プラ板で自作した下手な1/150サイズの客車だが、井川線のスロフ客車の雰囲気はそれなりに出ていた。アルナインの井川風客車の寸法をそのままプラ板にトレースして切り貼りしているから当然であったが、台車が元の車輌の大型サイズのままなので、そこだけはちょっと違和感があって車高も高くなっていた。いずれアルナインのアーチバー台車も購入して交換しなければならない。

 

 続いて動力車となる客車を製作した。上図のように鉄道コレクションの凸型電気機関車の動力ユニットをもってきてこれにプラ板で作った車体をかぶせてスロフ客車に仕上げた。

 

 この客車を動力車とすることで、動力が入っていない機関車のDD100形を繋いでの1編成が出来上がる。以前に自作したDD100形機関車に動力ユニットを組み込むことが、機関車の形状の関係で出来なかったため、客車のほうを動力化して連結することで、線路上を走らせることが出来るようにしたわけである。

 

 ただ、動力車は御覧の通りモーター等の諸装置を車内に入れるので、上図下の客車のように座席パーツを組み入れることは不可能であった。そこは仕方がないものと割り切った。

 

 塗装に入った。今回製作した計6両の客車は、御覧のように井川線の旧塗装カラーで塗った。これを牽引するDD100形機関車の現役時代のカラーデザインと同じ赤とクリームのツートンであるので、昔の井川線の列車が再現出来るわけである。

 

 塗料は全てミスターホビーの水性アクリジョンカラーを使用し、全て筆塗りで進めた。初めに車体の帯の部分を34番のクリームイエローで塗り、乾いてからマスキングテープで保護した。その上に3番のレッドで残る車体全部を塗った。

 

 その後、マスキングテープを静かにはがして、上図の通りになった。屋根板は57番のエアクラフトグレーで塗り、これは別に保管した。車内の窓ガラス部分にする透明プラ板を組み入れてから、屋根板を貼り付ける予定であった。

 

 最後の仕上げ作業は、12月3日に開催された第20回京都にぬき模型製作会の席上にて行った。この日の参加者は30名余りであったと聞くが、主催運営側のメンバーも含めると35人ぐらいは居たようである。
 上図右下に、私が持参して展示していた西住家Ⅱ号戦車F型も写っているが、この日の参加者は私以外全員がガンプラを製作していて、戦車には見向きもしなかったのであった。

 

 にぬき模型製作会の席上での作業は、車内に透明プラ板を組み入れて窓ガラスにする、屋根板を貼り付ける、の二つであった。

 

 かくして2時間足らずで5両の客車が完成した。なのでにぬき模型製作会への参加は午前の部のみで切り上げ、午後は嫁さんに合流して四条河原町での買物に付き添った。

 

 帰宅後に、嫁さんが模型製作テーブルの上に線路を敷いて、その上に機関車と客車6両を並べて繋いだのが上図である。実際の井川線でもこのような7両編成の列車は普通に走っているそうで、春秋のシーズンには10両を超えることも珍しくないそうである。

 ただ、私の計画している井川線のレイアウトにおいては、7両編成でも長過ぎると思う。駅のホームも縮小して作る予定なので、だいたい1編成が3両から5両までの間になるだろう、と考えている。

 かくして、大井川鐡道井川線の客車を増備する試みは12月3日で完了した。これで、6月から始めた大井川鐡道本線と井川線の車輌を出来るだけ購入または製作して最小限の数を揃える、という試みは、千頭駅の製作も含めて、半年近くの月日と総計約11万円の費用を費やしてようやく一段落したのであった。

 来年からは、ジオラマレイアウトの製作をのんびりと、少しずつ進めて行こうと考えている。 (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く35 その9  瑞牆山荘へ

2023年12月06日 | ゆるキャン△

 11時30分、瑞牆山荘に着きました。ここでお昼のランチをいただく予定でしたので、12時までには行こうと考えていましたが、みずがき湖からの移動にあまり時間がかからなかったため、みずがき山自然公園にもこちらにも予定より早く着きました。

 上図は原作コミック第12巻93ページ1コマ目のアングルです。作中では、この瑞牆山荘に、大垣千明、犬山あおい、斉藤恵那の三人が立ち寄って館内を見物し、薪ストーブで暖まりながらアイスを食べています。

 

 このシーンですね。作中では3月のまだ寒い時期ですので、周囲の木々の葉が落ちて枝だけになっています。夏場の草木の繁る時期に行くと、同じアングルでも全然見え方が違います。
 ちょっと不思議だったのは、上図の道路の右側に白い車が停まっているのが、実際でも同じだったことでした。車種まで同じでした。

 

 瑞牆山荘は、作中では二つの方向から描かれています。先の画像は北からの図で、こちらの画像は南のバス停付近からの図です。

 

 このシーンのアングルです。原作コミック第12巻94ページ2コマ目です。このアングルでも白い車が意味ありげに描かれているので、なんとなく気になってはいましたが、実際に同じ車が同じ位置に停めてあるのにはびっくりしました。これお客さんの車とかじゃないな、と考えました。後で知ったのですが、瑞牆山荘の方の車だそうです。

 

 瑞牆山荘の斜め向かいにあるバス停です。作中で大垣千明、犬山あおい、斉藤恵那の三人がJR韮崎駅で集まって、バスでここまでやってきていますが、これは実際に運行されているバス路線の終点のバス停でした。

 

 バス停の案内板です。山梨峡北交通が運行している茅ヶ岳みずがき田園バスの路線バス停一覧と時刻一覧です。御覧のとおりJR韮崎駅とここ瑞牆山荘を結んでいます。途中のバス停を見ると、農村公園前、みずがき湖ビジターセンター、増富の湯、の3ヶ所のゆるキャン聖地スポットがあり、このバスを利用しての聖地巡礼も可能であると分かります。

 個人的には、さらにみずがき山自然公園まで延ばして運行してくれれば、バスでのんびりとみずがき山自然公園まで行けるのにな、と思いましたが、実はこのバス路線は、登山コースとして人気がある瑞牆山への登山口がある瑞牆山荘前までの登山バスとして運営されているとの事でした。

 

 バス停と瑞牆山荘は、このように道路をはさんで向かい合っています。そしてバス停の横の辻に、瑞牆山への登山口があります。登山客がここまで車で来て、上図の辻を右に上がっていって突き当りにある広い駐車場に停めておいて、山登りに行くのだそうです。

 

 その瑞牆山への登山口をバス停付近から見ました。一見して登山口があるようには見えませんでしたが、左の木に道標が括りつけてあったので、あのへんか、と分かりました。
 この場所から、瑞牆山山頂まで約2時間50分かかるそうです。本格登山の入門的なコースであり、始めはなだらかな坂や平坦な道を歩きますが、次第にキツい傾斜となってガチの山登りになるそうです。

 

 なので、この瑞牆山荘は、主に瑞牆山登山のベースキャンプとして利用される方が多く、殆どは常連さんであるそうです。メインはカフェレストランですが、宿泊施設もあるので、夜明けと同時に山頂を目指す登山客が前泊して、早朝の暗いうちに出発するケースが多いそうです。一種の山小屋施設みたいなものだな、と理解しました。

 

 バス停付近から、南側を見ました。原作コミック第12巻92ページ2コマ目のアングルです。

 

 このシーンですね。大垣千明、犬山あおい、斉藤恵那の三人が乗ったバスが終点のバス停に着いた図です。作中では3月ですから、周囲の木々の見え方が夏場とは全然違いました。
 バスの横に描かれている建物はバス停の待合所かな、と思っていたのですが、現地で実際の建物に近寄ってみたら公衆トイレでした。登山客用の、チップ制の有料トイレだそうです。  (続く)

 

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因幡薬師 平等寺

2023年12月05日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2023年4月23日、嫁さんと四条烏丸の大丸へ買物に行くついでに、上図の平等寺の特別公開に立ち寄りました。朝食時に嫁さんが、「たぶん研究のほうで知っておられるんでしょうけど、平等寺って分かります?」と訊いてきたのが発端でありました。といた生卵を小エビ入り炊き込み御飯にかけつつ「因幡薬師堂のことやろ・・・」と応えました。

「あ、因幡薬師のことやったんですかー。いなばやくし、って石標が確か、烏丸通松原の東にありますよね」
「それや。平等寺が正式な寺号やけど、地元じゃ因幡薬師って親しまれてるな」
「今度の春の特別公開でですねえ、そこも何かを特別公開するみたいなんですよ・・・」
「ああ、それは本尊の薬師仏像やろうな。いつもは非公開で昔は秘仏やったからな」
「やっぱり御存知なんですね・・・。研究とかで平等寺へ見に行かれたんですか?」
「いや、ずっと昔に京博の特別展で見たのが最初で、その後も何かの特別展とかで二、三回ほど見た記憶がある。寺で見たんは、うーん、そういえば一度も無いなあ・・・」
「こっちはお寺すら全然見たこと無いですよ、それでですねえ、あのう、大丸へ行く前に寄って行きません?」

 

 ということで、早速出かけました。嫁さんが行きたいと希望する場所へはすぐに同道してあげるのが私の大事な務めのひとつです。嬉々として前を歩き、地下鉄に乗り、バスに乗る嫁さんの後についていき、烏丸通からの屈折路から上図の観音堂の南側を回りました。

 

 南門の脇に立てられた特別公開の案内板です。御覧のように特別公開の対象である本尊薬師如来立像の写真がありました。それを嫁さんが見て、「重文ってありますね、国の重要文化財になってるんですか。歴史的に重要な仏像なんですねー」と感心していました。

 

 南門の様子です。門と言うか、横開きのガレージ扉に銅板屋根を付けた仕切り程度の出入口です。昔から周囲を宅地に囲まれた市井の御堂の雰囲気を保っており、門前は車道なので、すぐに入って出られる敷居の低さが、庶民信仰に生きる仏教の御堂の歴史をそのままに伝えています。

 

 ですが、寺そのものは真言宗智山派の拠点寺院として歴史的にも重きをなしています。現在の本堂は幕末動乱の火災で焼失したのを明治十九年(1886)に再建したものですが、旧堂の規模を踏襲して立派な構えをみせています。

「あ、ここはがん封じのお寺なんですねー、ねえ、お参りしましょう」と仏前に進んで手を合わせる嫁さんの隣に立ち、合掌して内陣を細目で伏し拝みました。
 それから祈りつつ、かつて「山城名勝志」関連の研究叢書で調べて読んだこの寺の縁起本「因幡堂縁起」の一節を思い出し、そして若い頃に東京国立博物館で見学した「因幡堂縁起絵巻」の鮮やかなやまと絵の織り成す描写を思い出しました。あれから三十年近くが経ったのだなあ、と感じました。

 

 本尊の薬師如来立像は、平安京の仏教美術史に名高い藤原時代の優品として知られ、仏像彫刻史のうえでは重要な基準作例の一つとして常に研究書や論考などで取り上げられるので、藤原期彫刻史が主専攻であった私にとっても大変になじみの深い仏像遺品の一つです。

 大学時代の昭和62年春、ゼミ教官だった恩師の井上正先生に「洛中の二如来は出来るだけ早めに見ておきなさい」と勧められて一方の嵯峨清凉寺釈迦如来立像はすぐに拝観に行きましたが、こちら因幡薬師堂平等寺の薬師如来立像のほうは秘仏で、年に一度、8月8日のみなので、その日を待ちました。
 しかし当日になって体調を崩して寝込んでしまい、その次の年の8月8日には用事があって行けず、その翌年に京都国立博物館の展示にてやっと拝観した、という思い出がありますので、個人的に忘れられない仏像の一つになっています。

 拝観がなかなか出来ないでいる時期に、予習の意味で中野玄三先生の論文「因幡堂縁起と因幡薬師」を何度も読み、要点をノートにまとめました。それによって薬師如来立像の制作年代が長保五年(1003)頃であり、これの造立には「因幡堂縁起」にも登場する因幡国司の橘行平(たちばなのゆきひら)が関わっている、といった歴史的背景を理解し、当時の平安京で盛んであった新興の受領階級による寄進造仏の一端を伺うことが出来たのでした。

 

 なので、昭和64年1月に京都国立博物館の展示にてやっと初めて拝観した時には、本尊薬師如来立像に関する諸情報や歴史的背景への理解がほぼ出来上がっていて、薬師如来立像の実物にも真っ直ぐに謙虚に相対出来て、感慨がより深まった記憶があります。

 嫁さんに続いて上図の収蔵庫に入って、本尊薬師如来立像に十何年か振りにお会いした時、かつての感慨が胸中に鮮やかなままであるのを覚えて、なぜかホッとしました。一種の法悦に近いような、安らいだ気持になりました。嫁さんもそのことを感じ取ったらしく、「やっぱり、懐かしいですか」と小声でささやいてきました。

 

 正直言って、懐かしい気持ちもあるにはありましたが、それ以上に、私の長い研究課題における重要作品の一例としていまなお厳然として存在する由緒深き霊像、としての存在感への畏怖というか一種の憧れの気持のほうが、いまも脈々として息づいている、というのが一番の実感でした。

 平安京に最高最美の仏教美術を具現させるという目標を定めて燦然と登場し、時の権力者にして芸術文化の庇護者であった藤原道長を後援者に仰ぎ、数々の名仏像を造立しては末世の闇にも滅びぬ永遠のみほとけの姿を模索し続け、ついに宇治平等院鳳凰堂の絢爛たる諸芸術融合の姿を実現させて極楽浄土の何たるかを世に問うた定朝(じょうちょう)。
 この、日本美術史上に不朽の名声を刻んだ平安期の天才仏師の造仏の変遷とその歴史的意義を問うことが、私の長い研究課題の重要な一つでしたが、その定朝の父にしてこれまた名仏師の誉れ高かった康尚(こうじょう)の活躍期の造仏の歴史を追う事もまた重要な課題でありました。

 そしてここ因幡薬師堂平等寺の薬師如来立像は、その康尚の活躍期の基準作例の一つであります。康尚その人の作ではないかとする研究者も何人か居ました。
 ですが、恩師井上正先生は「あれは、微妙だねえ」と、私が記憶している限りでは三度、講義や演習や昼食休憩の時などに言いました。私が「それでは真如堂の阿弥陀如来像の方がまだ有力、ということですか」と訊くと、独特の穏やかな視線をさらっと向けてきて、短く「ですな」と応えました。そのときの先生の表情がいまも忘れられません。

 しかし、私のほうは、因幡薬師堂平等寺の薬師如来立像においても康尚の関与をみるべきではないか、という観点が魅力的に思えていたのでした。それは現在も変わらず、「康尚と同じ工房で活躍した有力仏師の作で、その制作には康尚も協力した」というのが、私の基本的理解です。それが正解かどうかは判りませんが。

 そういった諸々の思い出を、嫁さんに問われるままに簡潔に話しました。「それで、研究の結論は出たのですか」と訊かれましたが、黙って首を横に振りました。
 どれだけ調べても諸角度から追究しても、解き明かせぬ謎の部分というものは確かに残るからです。そういった謎を無理してとにかく追い続けるよりは、次代の研究者に任せるべきだ、という思いも同時に抱いているからです。

 

 かくして久しぶりの因幡薬師堂平等寺参拝は、若き日の自分に再会したようなひとときとなりました。本堂前にて再び一礼したあとで南門を出る時、嫁さんが「さっきは本当に楽しそうな顔してましたよー」と言いましたが、その通り、楽しくて楽しくて仕方がなかったのだと思います。  (了)

 

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知波単学園 九七式中戦車(名倉車) 作ります!! その3

2023年12月04日 | ガルパン模型制作記

 ステップ8では、車体背面部などを組み立てます。背面のワイヤーをセットした状態と外した状態とを選べますが、劇中車はワイヤーを積んでいますので、セットした状態で作ります。また、ナンバープレートは付きませんので、A29もMA2も不要です。

 

 ワイヤーのA37を仮組みして組み立てた状態です。後でワイヤーをこの形のままで外して保管しました。塗装段階で車体に迷彩を施すため、ワイヤーはその後で取り付けることになります。ワイヤーを留めるD3、D31も同様に塗装後に取り付けます。

 

 車外装備品類のパーツです。ジャッキだけを組み立てます。

 

 ジャッキを組み立てた後に、フェンダー上に装備品類を仮組みしてパーツの合いを確かめました。これらは塗装後に組み付ける予定です。

 

 ステップ9からは砲塔の組み立てに入ります。ステップ10で砲尾部分を、ステップ11で主砲を組み立てます。全て組み立てガイドの指示通りに進めます。

 

 ステップ9で組み立てる砲塔のパーツ類です。底部は珍しい四分割のパーツでした。

 

 組み上がりました。

 

 ひっくり返して内部をみたところです。ターレット部分のモールドが細かく表されて旋回機構の様子がよく分かります。何かの模型誌で読んだのですが、このドラゴンの九七式中戦車のキットは、インテリアキットとして開発する案もあったそうです。
 そういえば、車体の内部にはリブも再現されていますから、インテリアキットで出してくれれば、より製作も楽しめただろうと思います。

 

 車体に仮組みしてみました。砲塔本体はファインモールドのパーツを使用していますが、底部だけはドラゴンのパーツに差し替えられているため、車体への組み付けもスムーズでした。

 

 続いてステップ10で砲尾部分を、ステップ11で主砲砲身を組み立てますが、同じ主砲のパーツですからまとめて一気に組み立てることにしました。

 

 組み上がりました。主砲の砲塔内の操作部分も細かいパーツで精密に再現されています。インテリアキットとして開発する案が実現しなかったのは本当にもったいないな、と思いました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く35 その8  みずがき山キャンプ場

2023年12月03日 | ゆるキャン△

 みずがき山自然公園のほぼ中央に位置する管理棟は、公園の西半分を占めるキャンプサイトの管理棟であり、館内の売店にはキャンプ用品も豊富に取り扱っています。

 

 原作コミック第12巻100ページの2コマ目と3コマ目でも、その豊富な品ぞろえがそのまま描写されています。左の2コマ目の「お酒・ドリンクコーナー」は夏場なので水のペットボトルが多かったですが、写真を撮り忘れました。右の3コマ目が最初の画像と同じ陳列コーナーで、実際にガス缶や着火剤も売っていました。

 

 出入口の窓ガラスに貼られた上図の「きのこ類採取一日入山券」の案内チラシも既視感バッチリでした。椎茸のイラストが、椎茸が好物の身にはたまらなくそそるのでした。

 

 原作コミック第12巻100ページの4コマ目に、椎茸のイラストもそのまま忠実に写して描かれています。作中では壁に貼ってあるようですが、実際には最も目立つ出入口の窓に貼ってあるので、いやでも目につきます。個人的にはきのこ類はよく食べますので、時間があったら入山券を購入して椎茸の採取をやってみたかったです。

 

 売店の奥へ進んで食堂の横から裏庭へと出ました。地面が一段低くなっていて、管理棟が傾斜地を造成した平坦面に建てられていることが分かりました。周囲一帯はキャンプサイトですが、一般観光客の出入りもある程度まではオーケーであるようで、受付でキャンプサイトの見学が出来るかと訊いたら、5分程度なら良いですよ、との事でした。

 ところで上図の、瑞牆山をバックにして管理棟を西側から見た景色にも、既視感がありました。

 

 この場面ですね。原作コミック第12巻109ページの第68話の扉絵です。斉藤恵那とチクワ、サエモドのはんぺんですが、このはんぺんが中津川メイの飼い犬だとは、この時点では知る由もありませんでしたね。
 最初は、各務原なでしこが好きなウィーチューブチャンネルに出てくるサエモドわんこ、ということで第12巻34ページにいきなり登場していたのでした。

 

 管理棟の周囲のキャンプサイトを見ました。上図は管理棟からみて南側で、広い芝生のゾーンの奥に林間のゾーンがありました。
 案内パンフレットによれば、テントサイトは約100ヶ所もあり、オートキャンプも可能であるそうです。利用者が10張以上の場合は管理人が管理棟に夜間駐在するそうで、サイトの利用料金はひとり1500円から、5人以上だと4000円、デイキャンプは大人300円ですが中学生以下は無料、ということです。

 この日も数組のキャンパーが利用していて、オートキャンプのサイトにも4、5台の車が入っていました。

 

 管理棟の南側を回って東側へと移動し、再び中に入るまでの間に撮った景色です。キャンプサイトのどこからも瑞牆山の山並みがよく見えます。

 

 再び管理棟の売店に入ったのは、作中で大垣千明が見つけた「にんにくしよゆづけ」が実際にあるのかを確かめるためでした。しかし、どこにも見当たらないので、カウンターに居た管理人らしき方に聞いてみたところ、「ああ、あれはだいたい秋に契約農家のほうから入れてくる品なんでね」と話してくれました。にんにくの醤油漬け、だそうですので、つまりは「にんにくしょうゆづけ」が実際の商品名であるわけです。

 夏場は、上図のように「にんにく」のままで売っていました。土産に二つ買いました。

 

 みずがき山自然公園には約30分ほど居て、それからクリスタルラインを再び南へ進んで瑞牆山荘へと向かいました。瑞牆山荘の手前で上図の標識を見ましたが、これにも既視感がありました。

 が、瑞牆山荘の駐車場がどこにあるのか分からなかったため、そのまま通り過ぎて奥まで進みました。ですが、奥の駐車場はなぜか満杯でしたので、引き返して上図の標識の近くまで戻りました。周囲を見回すと、上図の標識の斜め向かいの、道路より低い位置に広い臨時駐車場がありましたので、そこに車を停めました。  (続く)

 

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ゆるキャンから始めたNゲージ その25  大井川鐡道井川線の客車を増備する 上

2023年12月02日 | ゆるキャン△

 大井川鐡道井川線の車輌をNゲージで楽しもうと、これまでに3種類の機関車と客車および貨車を作ってきた。客車はアルナインのキットで3両を作り、貨車はトミックスの製品も含めて10両を揃えたので、客車がもう少しあればな、と考えて増備することを決めた。

 幸い、手元には上図のように不要となっていたNゲージの車台が7両ぶんあった。6月から大井川鐡道本線の電車などを少しずつ買い集めていたなかで、鉄道コレクション分の車輌を順次動力化していき、動力ユニットと交換して不要になったものである。

 これらの車台を活用して、井川線のスロフ客車に改造することにした。実際の井川線のスロフ300形客車の多くが、余剰となったcトキ200形貨車の車台を流用して製造されていることに倣っての、パーツの有効利用の一環であった。

 

 手始めに、改造製作する客車の簡単な設計図を描いた。スロフ300形をベースにして、三種類ぐらいの外観案をまとめ、寸法はアルナインの金属キットの客車のそれに合わせた。例えば、車長は6.8センチ、車幅は1.5センチとなった。

 

 不要車台の全てが、車長がもっと長いものばかりであったため、カットして縮めて、車長を6.8センチに統一することにした。

 

 そこで、スチレンボードの余り材を使って上図のような治具をこしらえた。長さ6.8センチ、幅1.5センチの長方形の穴をあけ、それにカットした車台をはめこんで車長6.8センチ、車幅1.5センチの車台に改造することにした。

 

 台車を外し、車台の中央でカットして縮め、治具にはめこんで長さ6.8センチになるように削って調整し、再び繋ぎ合わせて改造した。

 

 とりあえず、5両分を同じ車長6.8センチに改造した。

 

 台車は元のままのが付いているが、井川線用のアルナインのアーチバー台車が入手出来なかったので、交換せずにそのまま使用することにした。もとは在来線の車輌の車台ばかりなので、台車も車輪も大きく、その分車高が高くなってしまうが、アルナインのアーチバー台車を確保するまでの仮の台車として活かすことにした。

 

 車体はプラ板をカットし、窓や扉の窓を切りぬくという手順で進めた。今回使用したのは、100円均一ショップで売っている0.3ミリ厚の品で、切りやすいために以前からガルパン戦車プラモデルの改造に使っているものであった。

 

 上図のように、側面と妻面の壁体セットを二つ作って窓を切りぬいた後、組み合わせて1つにする、という方法で作った。

 

 車台のほうはいずれも幅が1.4センチぐらいだったので、側面にプラ板を張ってかさ増しした。

 

 壁体セットを組み合わせて上図のように車体を構成した。車内の座席は元の車台に付いていたものをそのままカットして再利用したので、5両それぞれの座席配置が改造後の客車に受け継がれる形となった。 

 

 屋根を仮組みして、このようにまず1両が仕上がった。塗装後に窓ガラスを透明プラ板で組み込んで、それから屋根を接着して固定する予定である。

 これと同じサイズの客車を、窓のデザインを少しずつ変えつつ、あと4両作ることにした。さらに1両は動力ユニットを組み込んで動力付きの客車にする予定なので、あわせて6両の客車を増備することになるわけである。

 また、もう1両は平貨車タイプに改造することにした。出来たら極小サイズのカメラを搭載して、いわゆるカメラカーに仕立てようかと考えている。列車の最後尾に繋げば、実際の井川線のアプト式列車と同じようにカーブでくねくね曲がる列車の姿を捉えて楽しめるのではないか、と思うからである。  (続く)

 

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