今夏、厚生労働省の研究班が発表した調査結果によると、「携帯電話やパソコンに没頭する『インターネット依存』の中高校生は、全国で推計51万8千人に上る。」のだとか。インターネット依存が強くなると睡眠障害や栄養障害は元より、廃人に成る危険性も。
脚本家の内館牧子さんが、週刊朝日に連載しているコラム「暖簾にひじ鉄」。12月6日増大号では「推計51万人の現実(其の①)」というタイトルで、インターネット依存に付いて記している。
内館さんが男女の友達4人で、久し振りに集まって食事をした時の事。内館さんが「先日、地下鉄銀座線で溜池山王駅から浅草駅迄行った際、乗り合わせた車両の人々が、皆、一心不乱に“スマホ”を弄っていて、異様な光景だった。」と話した所、同席していたB子が「一寸した祝い事が在り、妹一家及び兄一家とレストランで食事をした際、自分は10分程遅れて行ってしまったのだが、総勢11人が既にテーブルに付いていた。テーブルを囲んで11人全員がスマホだか携帯だかを弄っていた。食事中も姪達は膝の上でこっそり弄り続けていたのだけれど、親達は叱りもしなかった。」と、呆れ果て乍ら告白したのだと言う。
すると、ずっと黙って酒を飲んでいたC男が、「俺の話も書いて良いよ。もう時効だし、兎に角 酷い事になってるよ、ネットの世の中は。」と切り出した。以下は、記事を転記する。
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聞けば或る夜、大切な客を接待する為、C男は40代の部長と老舗の名店に行った。料理も雰囲気も完璧で、店主は大切な接待だと承知して、全てに細やかに心配りをしてくれたと言う。
接待を受けた客は「昔、此の近くに親父の実家が在って、私も幼い頃は一緒に住んでたんで、懐かしいですよ。」と言い、頬を紅潮させて喜んだと言う。何の問題も無いではないかと私達が思っていると、C男は苦笑した。「内の40代の部長が遣っちゃった。」。
客は今は他県に住んでおり、余程嬉しかったのか店主に言ったそうだ。仮にアルファベットで書く。「此処等は江戸時代迄P氏の土地で、今で言うQ町に広大な御屋敷が在りましてね。僕が小さい頃には、未だ御屋敷跡が在って、遊んだものですよ。」。
店主は嬉し気に応じた。「そうですか。私は歴史に暗くて御恥ずかしいのですが、今のZ町の方迄P氏の土地だったと聞いた事が在ります。」。
すると、件の40代の部長がスマホを操作し、チェックし乍ら訂正した。「Z町はP氏の土地では在りません。御屋敷は確かにQ町に在りましたが、西暦△年にはXXが建っていますので、小さい頃遊ばれたのは別の場所ですね。」。
シーンと座は静まり、シラケ鳥【動画】が声も無く飛び交ったそうだ。C男と店主は、態とらしいフォローを入れると却って無礼だと、困り果てたと言う。
問題は部長に全く悪気の無い事で、放っておくとスマホの文章を読み上げそうだったと言う。帰りの車内で、上司としてC男が注意すると、「え?誰だって正確な事を知りたいでしょう。」と怪訝な顔をしたと言う。
C男は私達に言った。「人の気持ちというのが全然判って無いんだよね。正しい歴史を伝えるのは良いの。だけど、彼程高揚している人の前でスマホを取り出して、調べて訂正するって、冷や水をぶっ掛ける様なもんよ。」。
私が、「スマホで調べれば直ぐに判ると考えるのは、今の時代では普通よ。問題は今は其れをして良いか否か、場も読めないし、人心も読めない事。何時からこんなになっちゃったか。」と言うと、B子が「江戸時代のP氏の土地の話なんて、其の場では御天気の話みたいな物で、正確で在る必要なんか無いのよ。でもね、もう此処迄来ちゃった今、ネット依存がどうたらって慌てても無駄。どんな手を打とうと、どんどん進むわよ。」と投げ槍振りに拍車が掛かる。
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場や人心が読めない人って、結構居たりする。昔の上司が、そんな人だった。人と会話する事が殆ど無く、周りから変人と扱われていた人物で、仕事上の話をしていても、返って来る言葉は“本質”と全く無関係な、正直言ってどうでも良い事許り。「訪問したB社は・・・。」と話し始めたら、「其のB社には、どういう移動手段を用いて、何分位掛かったのか?」といった感じで返して来るのだから。
取引先に一緒に行っても、当人は一言も喋らない許りか、ジトーッとした目で相手を見据えるだけ。自分が延々と打ち合わせをし、終了した後に相手が「其れじゃあ、食事にでも行きますか?」と言うと、其の上司は一転して喜色満面となり、「行きましょ、行きましょ!」と立ち上がり、スキップをせんが如くに歩き出す。
「取引先が食事を奢るのは当然。」と思っている其の上司は、食事中は一切無言で、欠食児童の如く一心不乱に飲み食い。食事が終わって精算の際、余りに申し訳無いので「此方で持たせて貰いますから。」と言うと、「気にしないで下さい。でも、申し訳ないけれど、御宅の上司は何しに来られたんでしょうね?」と苦笑いで相手から返される事が何度か在り、本当に恥ずかしかった。
それを披露するのがいいことみたいに思うのって
非常に子供じみていてみっともないですねえ。
さて、ネット依存、一昔前は「漫画を読みふける」
「低俗な小説に没頭する」ことをさんざん批判してきたであろう
いわゆる真面目な大人の皆さん方(笑)
当世では「漫画でもいいから読書」と旗を振るのを見ているので
嘘くさい感じがしております。
ネット環境があっても依存しない人もいますし
なければないで他のモノに依存してどうしようもなくなる人がいます。(家族、時としては他人に執着するのも依存の一種かも)
ただ何かに依存しやすいタイプの人が増えてきているのでは?
と思います。
民主党の議員が安倍首相に批判的な質問をすると、其の質問には答えずに、「民主党が政権だった時は、出来なかったじゃないですか!」と切れ捲るシーンを何度か見掛けました。
何度も此処で書いている事ですが、与党としての民主党は評価出来ない部分が多いし、確かに「御前達が言えるのか?」と思う面も在る。
でも、苟も一国のトップたる人間が、「質問の本質的な部分」に一切答えず、子供の様に逆切れする姿には、「場を読めない人だなあ。」と感じます。此れだけ数で勝っているのだから、もっと鷹揚に構えれば良いのに・・・結局は「首相の器に非ず。」って事なんでしょうけれど。
3.11以降、「人の絆」というのが矢鱈と言われますね。「人の絆」自体は悪い事では無いし、そういうのは大事だと思う一方で、自分自身が持つ「人の絆の概念」を最重要視する余り、「其処から少しでも外れた人を、徹底的に排除しよう。」という風潮が強くなった様にも感じるんです。
又、「国家への依存度」というのも、強くなった気が。寄らば大樹の陰的な思考が強まり、其の結果として「国が大事で在って、国民は二の次、三の次。」という感じ。「国残って、国民無し。」じゃあ意味無いんですけれどね。
今は当時に比べるとかなり改善されていますが、それでも周囲の人々が異口同音に「あの人のあの行動は場が読めていない」というのを聞いて、内心「見ていてそんなに違和感を抱かなかったけどな。そうか、あれが世間様では場の読めない行動になるのか。似たような行動は慎んでおこう」と思うことがあります。今のところ妊娠・出産の予定はありませんが、「もし子供ができたとして、子供が場にふさわしくない行動や奇妙な振る舞いをしても、私がそれに違和感を抱けず、正すことができないという事態が起こるのではないか」という不安と、「逆に、そのような危惧が強くなるあまりに目くじらを立てすぎて、子供を萎縮させるのではないか」という不安の両方があります。
御笑いの世界で始まった様に感じるのですが、「空気が読めない。」という言葉を用いて、他者を排除しようとする虐め的な遣り口というのは、個人的に嫌いです。「空気が読めない。」として異分子を排除し、“同じ方向を向いている人”だけで社会を構成し様というのは、非常に危険な事でも在るからです。
人は多かれ少なかれ「空気が読めないという部分」を持っており、社会に触れる事で「此れは、明らかに他者を不快にさせてしまうな。」等と気付かされ、良くも悪くも社会と調和して行く。其れが過ぎてしまうと「没個性」になってしまうし、バランスが難しい所では在りますけれど。
ぷりな様の場合、思い遣りに溢れた方々に囲まれていた事で、良い方向に「自我」が育って行ったのだと思います。