先日、チャンネル銀河で再放送されたドラマ「地方記者・立花陽介 ~伊豆下田通信局~」を見た。「水谷豊氏が演じる立花陽介は東洋新聞の地方通信局記者で、頻繁に転勤を強いられるのだが、其の先々で殺人事件に遭遇してしまう。新聞記者として情報を掻き集め乍ら、事件の真相を究明する。」というのが此のドラマのコンセプトで、現在迄に合計20作品が放送されている。今回見たのはシリーズ第一弾で、17年前の1993年に放送された物。
「赴任先の伊豆へ車で向かっていた陽介が旧天城トンネルを抜けた際、一枚の紙切れがフロントガラスに落ちて来る。其の紙切れには何とも不気味な文章が書かれており、不審に思った陽介が辺りを見上げると、一人の男性が死体となって横たわっているのを発見する。」というストーリー。不気味な文章というのは「・・・いな・・・金魚を一匹突き殺す」という物で、此れは歌人で在り童謡作家でも在る北原白秋が童謡集「トンボの眼玉」に入れた「金魚」という童謡の一節なのだ。
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「金魚」
母さん、母さん、どこへ行た。
紅い金魚と遊びませう。
母さん、歸らぬ、さびしいな。
金魚を一匹突き殺す。
まだまだ、歸らぬ、くやしいな。
金魚をニ匹締め殺す。
なぜなぜ、歸らぬ、ひもじいな。
金魚を三匹捩ぢ殺す。
涙がこぼれる、日は暮れる。
紅い金魚も死ぬ死ぬ。
母さん怖いよ、眼が光る。
ピカピカ、金魚の眼が光る。
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北原白秋と言えば童謡「ゆりかごのうた」(曲)や「この道」(曲)、「からたちの花」(曲)、「ペチカ」(曲)、「待ちぼうけ」(動画)、「城ヶ島の雨」(曲)等々、優しく且つ柔和な作詞が幾つも思い浮かぶ。其れだけに思春期の頃(中学の頃だったか。)、此の「金魚」という童謡の詩を初めて目にした時はゾッとしたし、其の詩を手掛けたのが白秋と知って非常に意外に思った物。(唯、「童歌や童謡の詩には、恐ろしい背景が在ったりする。」というのは良く指摘される事で、「金魚」だけが特別視される物では無い。)
こちらに書かれている様に、「金魚」の詩の残酷さを批判された白秋は、次の様に反論したと言う。
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「或る作家(=西條八十)が、私の数百篇の中の一篇『金魚』を以って不用意にも単なる残虐視し而も私の他の童謡にも累を及ぼすまでの小我見を加えた。私は児童の残虐性そのものを肯定するものではない。然し児童の残虐性そのものはあり得る事である。私の『金魚』に於いても、児童が金魚を殺したのは母に対する愛情の具現であった。この衝動は悪でも醜でもない。」
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「子供は残酷な部分を持っている。」とは、良く言われる事だ。昆虫の手足を捥いだり、蛙を踏み潰したり、魚を意味も無く殺したりと、特に罪悪感を持つ訳でも無く、残酷な事をしてしまえるのが子供。自身の幼少期を振り返ると、其の手の残酷な行為を自分もした経験が在り、今考えると「何であんな事をしてしまったのだろう?」と思ってしまう。
母親への思慕の念が強く、帰らぬ母を待ち続ける寂しさや心細さが増す余り、無力な金魚を次々に、罪悪感も無しに殺してしまった。其れが「金魚」の詩に登場する子供という事だけれど、そういった残酷性が子供の心に在るのは否定しないものの、何とも不気味さを感じさせる詩なのは否定出来ない。
「赴任先の伊豆へ車で向かっていた陽介が旧天城トンネルを抜けた際、一枚の紙切れがフロントガラスに落ちて来る。其の紙切れには何とも不気味な文章が書かれており、不審に思った陽介が辺りを見上げると、一人の男性が死体となって横たわっているのを発見する。」というストーリー。不気味な文章というのは「・・・いな・・・金魚を一匹突き殺す」という物で、此れは歌人で在り童謡作家でも在る北原白秋が童謡集「トンボの眼玉」に入れた「金魚」という童謡の一節なのだ。
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「金魚」
母さん、母さん、どこへ行た。
紅い金魚と遊びませう。
母さん、歸らぬ、さびしいな。
金魚を一匹突き殺す。
まだまだ、歸らぬ、くやしいな。
金魚をニ匹締め殺す。
なぜなぜ、歸らぬ、ひもじいな。
金魚を三匹捩ぢ殺す。
涙がこぼれる、日は暮れる。
紅い金魚も死ぬ死ぬ。
母さん怖いよ、眼が光る。
ピカピカ、金魚の眼が光る。
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北原白秋と言えば童謡「ゆりかごのうた」(曲)や「この道」(曲)、「からたちの花」(曲)、「ペチカ」(曲)、「待ちぼうけ」(動画)、「城ヶ島の雨」(曲)等々、優しく且つ柔和な作詞が幾つも思い浮かぶ。其れだけに思春期の頃(中学の頃だったか。)、此の「金魚」という童謡の詩を初めて目にした時はゾッとしたし、其の詩を手掛けたのが白秋と知って非常に意外に思った物。(唯、「童歌や童謡の詩には、恐ろしい背景が在ったりする。」というのは良く指摘される事で、「金魚」だけが特別視される物では無い。)
こちらに書かれている様に、「金魚」の詩の残酷さを批判された白秋は、次の様に反論したと言う。
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「或る作家(=西條八十)が、私の数百篇の中の一篇『金魚』を以って不用意にも単なる残虐視し而も私の他の童謡にも累を及ぼすまでの小我見を加えた。私は児童の残虐性そのものを肯定するものではない。然し児童の残虐性そのものはあり得る事である。私の『金魚』に於いても、児童が金魚を殺したのは母に対する愛情の具現であった。この衝動は悪でも醜でもない。」
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「子供は残酷な部分を持っている。」とは、良く言われる事だ。昆虫の手足を捥いだり、蛙を踏み潰したり、魚を意味も無く殺したりと、特に罪悪感を持つ訳でも無く、残酷な事をしてしまえるのが子供。自身の幼少期を振り返ると、其の手の残酷な行為を自分もした経験が在り、今考えると「何であんな事をしてしまったのだろう?」と思ってしまう。
母親への思慕の念が強く、帰らぬ母を待ち続ける寂しさや心細さが増す余り、無力な金魚を次々に、罪悪感も無しに殺してしまった。其れが「金魚」の詩に登場する子供という事だけれど、そういった残酷性が子供の心に在るのは否定しないものの、何とも不気味さを感じさせる詩なのは否定出来ない。
