“獄門”や“梟首”、又は“晒し首”と呼ばれる刑罰は、平安時代後期から存在していたのだとか。斬首刑の後、死体を試し斬りにした上、刎ねた首を台に載せて3日間(2晩)、見せしめとして晒し者ものにする公開処刑。付加刑として財産は没収され、死体の埋葬や弔いも許されなかったと言う。
大昔になるけれど、江戸末期から明治初期に撮られた写真集を見た。崩れ掛けた城や村の風景、幕末の志士、市井の人等、興味深い写真の数々だったが、思わずギョッとしてしまった写真が。其れは、1人の男の晒し首だった。目を閉じ、歯を食い縛っている様な其の男は江藤新平。
“維新の十傑”の1人で在り、明治政府では参議兼司法卿をも務めた人物。そんな大物だが、大久保利通等と対立した事で下野。故郷の肥前(現在の佐賀県)に戻り、そして佐賀の乱を起こす事となる。明治政府によって乱は鎮圧され、捕らえられた江藤は、真面な裁判を受ける事も無く、梟首の刑を申し渡される。
江藤の晒し首の写真からは、彼の無念さがひしひしと伝わって来る物だったが、そんな晒し首が廃止されたのは、140年前の今日、即ち「1879年1月4日」の太政官布告第1号によってだった。