今回の記事、本当は昨年12月28日にアップすべく、用意していた物。然し、「笑って、泣いて、そして笑って」という記事を書きたくなったので、急遽差し替えたという経緯が在る。鮮度に欠けてしまうが、御容赦願いたい。
過去に何度か書いているけれど、「男女平等は、“可能な限り”守られるべき。」だと思っている。でも、其の一方で「男女平等を100%守らせるのは、“現実的に”不可能。」とも。「男女では身体の作り等、根本的に異なる部分が在るので、100%の平等というのは不可能。」と考えるので。
そういう事を無視して、盲目的に男女平等を主張する人達が居る。全部が全部とは言わないが、そういう人達は概して「女性に関する平等は声高に叫ぶけれど、男性に関して無頓着。」という傾向が在る。「プリクラが置かれている場所に、『男性のみ(又は男性同士)での利用は禁止。』という掲示。」を目にする度、「こういうのには、『おかしい!』と言わないんだよなあ。」と疑問に思ってしまう。(「防犯上の問題。」という事ならば、取れる対策は幾らでも在ろうに。)
随分前から、「履歴書上で、顔写真の添付や性別欄の記入を求めない。」という会社が増えていると聞く。「見た目や性別によって、採用の判定をしない。」というのが理由。”建前”で在ろうとも、此れは良い事だと思う。
昨年12月27日付け東京新聞(朝刊)の記事によると、「来春(即ち今春)の入学者を選抜する公立高校の2022年度入試迄に、東京都を除く全国46道府県教育委員会が、入学願書の受験生の性別欄を禁止する。」事が判明したのだとか。“出生時の性”と“自認する性”が異なるトランスジェンダー等、性的少数者への配慮から、性別欄の削除が浸透した結果。考え方は色々在ろうが、個人的には、此れも良い事だと思う。
各教育委員会によると、2018年度入試迄は、全国の公立高校願書に性別欄が在ったが、大阪府と福岡県で2019年度入試から削除され、各地でも見直しが進んだ。2022年度入試からの廃止を決めたのは、山形県、栃木県、群馬県、千葉県、そして静岡県の5県。
唯一、性別欄を残す事になっている東京都だが、此れは「男女別定員制」を設けているのが理由だとか。「合格最低点が、男女で異なる。」という「男女別定員制」に付いては、「性差別だ。」という批判が強まっており、都教育委員会が昨年9月、「段階的に見直す。」という方針を決定している。
「『国会議員に占める女性議員の割合が極端に少ないので、もっと女性議員の割合を増やすべきだ。』という考え方自体には賛成だが、だからと言って、『誰でも構わないので、女性議員を増やす。』というのはおかしい。」と考えている自分なので、逆の考え方とも言える「男性なら、女性よりも点数が低くても、合格させるべき。」という「男女別定員制」には賛成出来ない。「男女別定員制」なんか撤廃し、東京都も公立高校の入学願書上の性別欄を無くした方が良い。
最近のジェンダー問題の取り上げ方を考えると、私の考えなど古いとか問題ありとされるかもしれませんが・・・どうも違和感があるのは確か。
例えば言葉(言葉遣い)の問題。
一例として自分自身のことを呼ぶのに、女性が「おれ」と言ったり、男性が「あたし」と言ったりすることは決してジェンダーフリーだとは思わない。
性別にかかわらず使える「わたし」という言葉があるなら、それを使うのが本来のジェンダーフリーだと思うのは、私の頭が固いのだろうか。
ジェンダーレスだからと言って、女性が粗野な男言葉を使っているのを聞くと、わざわざ粗野な言葉を選んで使うこともないだろうに、と思うってしまう。
逆に、性自認が女性なのかもしれないが、日常会話では普通使わないような女言葉を、見た目の男性がテレビ(ドラマやバラエティ番組内)などで使っているのをみると、気持ち悪くなってしまう。
こればかりは生理的嫌悪感なのでどうしようもない。
そういえば高校生の頃友人が、自分自身のことを「ぼく」という女の子のことを「ボーイッシュで好きだ」と言っていたのを思い出しました(苦笑)。
明々白々な“差別”は許されませんが、特定の対象に対する好きor嫌いというのは、誰しも大なり小なり存在する物で、「好き(乃至は嫌い)じゃないと駄目!」と他者が強いる事柄では無いと思っています。
自分も「女性が粗野な言葉遣いをするのは好きじゃ無い。」けれど、でも、上戸彩さんや内田有紀さんが大昔、ドラマの中で“僕”と自分を呼んでいたのには、「可愛いなあ。」と思っていましたので、高校時代の御友人の気持ちは凄く理解出来ます。