松永久秀という戦国大名が居る。与えられた武家官位から“松永弾正”とも呼ばれたりするが、現在放送中の大河ドラマ「麒麟がくる」に登場している事で知名度は上がったけれど、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康等の“主役級”と比べると、一般的な知名度は非常に低いだろう。今回読んだ小説「じんかん」(著者:今村翔吾氏)は、松永久秀の生涯を描いた作品で、第163回(2020年上半期)直木賞の候補作にもなった。
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時は天正5年(1577年)。或る晩、天下統一に邁進する織田信長の下へ、急報が届く。信長に忠誠を尽くしていた筈の松永久秀が、2度目の謀叛を企てたと言う。前代未聞の事態を前に、主君の勘気に怯える伝聞役の小姓・狩野又九郎(かのう またくろう)。だが、意外にも信長は、笑みを浮かべた。軈て信長は、嘗て久秀と語り明かした時に直接聞いたと言う、彼の壮絶な半生を語り出す。
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話は、「松永久秀が2度目の謀反を起こした際、織田信長が小姓の狩野又九郎を呼び寄せ、過去に松永から直接聞いた彼の半生を話す。」というスタイルで進んで行く。織田信長と言えば幸若舞の演目の1つ「敦盛」を好み、自身でも舞っていた事は有名だが、「人間50年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。」というフレーズの「人間」は、「にんげん」の他に「じんかん」とも読む。「人間(じんかん)=人の世」の意味で在り、今回の作品はそういう事で付けられている。
今年1月の記事「2022年は北条義時」でも触れた様に、“大河ドラマの主役として取り上げて欲しい人物”の1人が松永久秀で在る。「織田信長は松永久秀に付いて『三悪事(三好家乗っ取り・永禄の変・東大寺大仏殿焼き討ち)を行った悪人。』と評していたけれど、冷酷非道なイメージの在る彼が、自身を2度裏切った松永久秀を1度のみならず、2度目も赦そうとしたのは何故なのか?」、「織田軍に攻撃された際、立て籠もっていた信貴山城の天守にて、信長が求めていた名器・古天明平蜘蛛を叩き割り、火を放って“自爆”したという逸話等から感じられるエキセントリックさ。」、「『麒麟がくる』の主役・明智光秀同様、前半生を含めて謎が多い。」等々、非常に興味深い人物だからだ。大河ドラマでは「国盗り物語」、「軍師官兵衛」、そして「麒麟がくる」と、過去に3度登場してはいるけれど、主役としては取り上げられていないのが残念な所。
三悪事を行った人物というのに加え、松永久秀を描いた絵から伝わって来るイメージから、「松永久秀=エキセントリックで粗野、そして残酷な人物。」というイメージが在った。でも、最近放送された歴史番組で「優しさと深い教養を持った人物だった。」事を知り、意外さに驚いたもの。
「じんかん」での松永久秀は、「優しさと深い教養を持った人物。」として描かれている。何しろ謎多き人物で在り、前半生は全く判っていないに等しいので、著者の“想像”で描いている部分も多いのだけれど、彼の少年時代や三悪事を行わなければならなかった背景等、「そういう可能性は在るな。」と頷ける内容だった。「此の作品によって、松永久秀のイメージが大きく変わった。」という人も多い事だろう。
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「先ほども申したように九割の民。その民が使う薪の量が、木の育つ早さを越えているのだ。わかっていてもみな、やめようとしない。民は自らが生きる五十年のことしか考えていない。その後も脈々と人の営みが続くことなどどうでも良いというのが本音よ。」。高国(たかくに)の言うように、仮にこのまま薪を使っていれば、五十年、百年先に大飢饉が起こるかもしれない。いや、実際に起こり得る問題である。そして全ての民が一日にたった一本、薪を使うのを控えるだけでそれを未然に防げるとしても、自主的に動くことは決して有り得ない。
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“善意”で行った(行おうとした)事でも、人が必ずしも従うとは限らない。最初は従ったとしても、目先の事だけを重要視する事で従わなくなったり、反旗を翻す者も出て来たりする。そういうのが人の難しさで在り、善意で行った事に対する裏切りは、何とも空しかったりする。
物語の最初で、数人の子供が登場する。其の内の1人が“後の松永久秀”になる訳だけれど、歴史に詳しい人ならば恐らくは、「彼が、後の松永久秀なのだろうな。」と予想した人物を外してしまうだろう。詳しくは書けないけれど、彼に関係の深い“或る名前”が付いているので。此の意外性に、ぐっと引き込まれてしまった。
「三国志演義」で蜀漢に強い思い入れを持った人ならば、関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲の“五虎代将軍”や龐統、劉備、孔明といった英雄達が亡くなって行く度に、言い表し様の無い寂しさと悲しさを感じた事だろう。松永久秀に付き従って行った者達が、主君の為に亡くなって行く度、同様の思いが自分の中に湧いた。又、最後の最後で、久秀がずっと“思い続けた人の現状”が明らかとなるが、想像もしていなかった事実に驚かされ、そして湧いて来たのは深い悲しみだった。
「直木賞を受賞しても、決しておかしくない作品なのになあ。」という思いが。総合評価は、星4.5個とする。
時代小説は好きでも、著名な歴史上の人物を扱った歴史小説には、以前ほど魅力を感じなくなっています。
先がある程度読めてしまう事と、人物像とあまりにかけ離れた解釈で脚色されていると白けてしまう事もあって。
しかし、松永弾正は知らないほうが多いので、こちらの紹介文を見て食指が動いてきました(笑)。
立場が違えば善意が必ずしも正義にはならないし、歴史的評価はのちの時代の風向きでいくらでも変わる。
そうした目で見ると、歴史上の敗北者が悪人とは言い切れませんね。
今回の件とは全く無関係なのですが、一昨日、自民党青年局・女性局主催の公開討論会で、自民党総裁選に出馬した3氏に対し、「自分を歴史上の人物に譬えると、誰になりますか?」という質問がされましたが、各人の“人間性”が良く判る回答だったのが、実に興味深かったです。
菅義偉官房長官は“何時もの如く”視線を手元に落とした儘、具体的な名前を挙げるのは避けた。岸田文雄政調会長は「嘗ては徳川家康に共感した時も在ったが、今は時代を大きく転換させる政治家として池田勇人元首相の様になりたいと思う。」と回答。そして、石破茂元幹事長は「明智光秀と石田三成。徹底的な悪役として排除されたが、後世になって評価される様になった。」という趣旨の回答で、「自身が置かれている苦しみを吐露したんだな。」と思わずニヤッとしてしまいました。
織田信長や豊臣秀吉、徳川家康等の主役級は、もう腐る程小説やドラマの題材として取り上げられているので、「先の展開が読めてしまう。」というのは確かに在りますね。松永久秀は一般的な知名度が決して高く無い戦国大名故、そういう意味では新鮮さが在るでしょうね。
稀代の悪役として知られる吉良上野介も、地元では「民思いの名君。」という評価が在りますね。逆に浅野内匠頭には、結構悪い評価も。歴史って、結局は“勝者の側”から描かれた記録が残されて行き勝ちだし、又、評価する人の立場によって、人の評価は色々在ったりする。新しく発見された文献等により、がらっと評価が変わったりするのも、歴史の面白さですね。
再度コメントですみません。
「地元で名君」というのはどう評価したものでしょうね。
大野伴睦も田中角栄も、さらに言えば安倍晋三だって、地元を大事にした恩人政治家(名君)、という事になるのでしょうし。
逆に、国全体を視野に入れて活動することで、結果として地元のことがおろそかになり、地元で評価を下げることだってあったかもしれないし。
「隣の県のあの先生は地元に高速道路を通したり、立派な公民館を立てたのに、うちのあの先生はあちこち飛び回ってて、地元をほったらかしにして」・・・で、落選。
「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちれば只の人だ。」という有名な言葉は大野伴睦氏が吐いたそうですが、或る程度地元への利益誘導を図らないと、政治家で在り続ける事は難しいという現実が在りますね。勿論、小泉進次郎氏の様な“選挙に滅茶苦茶強い人物”は別なのでしょうが、こういう問題点を解決する意味でも、「地元からの陳情を法案として提出した段階で、地元の陳情に応えた物とする。其の法案が通らなくても、其れ以上、地元の政治家にああだこうだ言わない様な環境作りを、法律として定める。」という考えを、以前、某政治関係者が主張していましたが、一考に値すると思います。
御存知の様に「安倍晋三」という人物が大嫌いな自分ですが、“地元への利益誘導”という点に関しては、意外と彼は余り行っていない様に感じられ(地元の山口県に知り合いが何人か居り、「選挙の際には圧力を掛けられて動員させられるのは腹立たしいが、意外と地元への利益誘導というのは余りしていない様に感じる。」と話しています。)、其れが事実ならば、其の点に於いては評価出来る。