読んでいてヤバイなと共感できる本には出会ってきたけど声無き悲鳴を上げていたことに気づかされたのは初めてだ。
「読書からはじまる」 長田弘 NHK出版
金沢の詩人、室生犀星(むろうさいせい)の詩に
「ふるさとは遠きにありて思ふものそして悲しくうたふもの」
という有名な詩が紹介されていて日本人のふるさとのイメージを彫りこんだこの詩は、ひろく世に好まれて、さまざまに引用されてきた詩ですが、このように知られてきた詩行というのは、さて、わたしたちにとって情報の言葉なのでしょうか。それとも、読書の言葉なのでしょうかと問われている。
詩を読んで「ふるさとは遠きにありて思ふもの」という一文を覚え、記憶するのが読むこと。すなわち「読むこと」、すなわち読書です。片や日本近代の出郷者たちの思いをうたった室生犀星のうたであるというのは「知ること」、すなわち情報です。」といってる。
たとえば「世界の中心で愛をさけぶ」ってどんな本ってきかれたらきっと、
「柴崎コウが書いた本の帯で話題になって、あの題名ってエバンゲリオンの最終回の題名から出版社の人がパクってつけたんだって」って情報を僕はきっと流します。本の内容なんかより刺激的だ。
CDでいえばちょっと前までオリコンチャートが基準であったように中身そのものより順位のほうが大切だった。(今はインディーズという、ぼくらファンが彼らを支えているんだ。なんて感じられる、形態が好まれていたりもするし、様々だ。)
自分が本やCDを情報として捉えてることにショックを感じたんだ。
というのはある女性の投書のことが書かれていたんだけど、
僕と彼女にちょっとあてはまったんだ。
その人は、結婚してるんだけど奥さんは本をたくさん読むんだけど買わない。
図書館で借りて読む。あくまで読書のための読書を、本に求めている。
だから本を所有しなくてもいいという。
一方、夫は買った本は、積読。どんどん買ったものが重なっていく。
なんとなく読んだ気になる。本を買うのは気になって買ってくる。
気になって買ってくるのは、その中にあるであろう情報を手に入れたいから情報として本を求める。
しかし、情報の価値は情報を手に入れることにあるので、手に入れば気持ちは落ち着く。
結局読まない。これが、僕と彼女の本に対する接し方にあてはまったのだ。
さらに悪い事に僕は図書館でも本を借りて読まずに返したりしている始末。
もはや末期だ。(実はこの本も図書館から借りた本。。。)
そういう危機感から先に記事をアップさせて強引に本を読んでいく方法をこの本から始めるなんて、なんだか運命を感じるよ。時期としては、ギリセーフだね。