へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

何故政治家は短期的な目でしか見ないのか・・・・

2009年01月18日 18時23分02秒 | Weblog
河原真さんのコメントの返事にも書いているのだが、改めて別な視点から考えて見たいと思う。
私の好きな政治家に「後藤新平」「吉田茂」と言う人がいるのだが、「吉田茂」に関しては、麻生総理のお祖父さんで「バカヤロー解散」でも有名なためご存知の方も多いと思うのだが、「後藤新平」に関してはご存知の方は少ないだろうが、「後藤新平」と言う政治家(元は医者であるが)については、「余りにも長期的展望にたった考え方なので周りの人には理解されにくく、付いたあだ名が『大風呂敷』」なのである。
「余りにも長期的展望」とは、明治時代に「百年後の東京が人口一千万の大都市になるだろう」と予測していたことや、現在の主要新幹線網と殆ど同じものを明治時代に計画(狭軌ではなく現在と同じ広軌で計画するも、軍部の反対で実現できず)したり、関東大震災後の、「僅かにしか自動車が走っおらず、荷馬車や大八車が大手を振って走り回っていた」と言う東京市長(今の都知事と同じ)時代に、「やがては車社会がやってくる」と言うことを予測して東京の再開発を計画していたのであるが、東京市議会(当時は東京都ではなく東京市だった)の猛烈な反対にあって大幅な計画縮小を余儀なくされてしまったのだが、それでも当時としては広すぎる道路の完成に「こんな広い道路を作ってどうするのだ!」と言う抗議に「この道路もいつか狭くなるときが来る」と応えたのだそうであるが、まさにそのとおりになってしまったのであるが・・・・。
さて、簡単に書いたのではあるが、これらの事を冷静に考えて見ればわかるかと思うのだが、「長期的展望に立って考える」と言うことは「理解を得るには非常な困難を伴う」と言うことで、目先の欲得に目がくらんだ有権者相手にはとても無理まことではないだろうか?。
更に困ったことには、人間の心理に「将来の利益より目の前の利益を優先する」と言うものがあることも問題を難しくしている。
ましてや後藤新平のように「50年後、100年後」などと言うことになっては受け入れることは難しいのではないだろうか?。
100年後と言えば、私ばかりでなく若い人でも生きている可能性は殆どなく、50年後だって、若い人でさえ「後期高齢者」になっているだろうから、とても考えが及ばないだろう。
私が若かった頃は「10年一昔」と言われていたものが、現在は「10年1日の如し」などとも言われるように変化が激しいく、半年前までのガソリンの高騰がうそのように、今では半値にまで値下がりをしているのだが、このようなことを何処の誰が予想したであろうか?。
「明日をも知れぬ」と言う言葉はこの場合適切ではないだろうが、「予測不可能」とも言われる現在は、「山で霧に巻かれて方向を見失う(遭難)」と言うのと同じようなものだと思うのだが・・・・。
山で方角を見失ったときの鉄則に「無闇に動くな!」と言う言葉があるが、今の時代にも当てはまるのではないかと思うのだが・・・・。
更に別な考え方をするなら、「世界的不況と言う猛烈な嵐に巻き込まれている」と言う言い方も出来、「じっと嵐が過ぎるのを待つ」しかないのかもしれないが、仮に「嵐が過ぎ去った」としても嵐の規模が大きいだけに、「大きな被害の後かたずけが大変」だと言うことも考慮しなくてはならないだろう。
後藤新平の言葉に「金を残すのは下、仕事を残すのは中、人を残すのは上」と言うのがあるそうだが、私も手本にしたいものであるが・・・・。
コメント
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