へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

窮鼠猫を噛む?

2008年09月05日 03時23分06秒 | Weblog
今回の福田総理の場合も、前回の安部総理の場合も、見方を変えると「窮鼠猫を噛む」と言うことと同じではないだろうか・・・・。
「噛む」という部分を「放り出す」と言い換えて見ればよくわかると思う。
「孤軍奮闘」にも自ずから限界があると言うのに、本来味方であるはずの公明党にまで抵抗されては、孤軍奮闘ではなく、「孤立無援」の状態ではなかったのだろうか・・・・。
私自身もかつて同じようなこと(レベルはまったく違うが)をしてきたのでよくわかるのだが、同じ仲間同士の中から嫌がらせをされると「ふざけるんじゃねえ!やってられるか!」と言うことになってしまう。
言わば「持ち上げるだけ持ち上げておいて、梯子をはずす」と言うことと同じで、「ひいきの引き倒し」も同じようなことではないだろうか・・・・。
衆参のねじれ状態の中では、「小異を捨て大同につく」と言うことが重要になる中での反発が、「日本経済の屋台骨を揺らす」と言うことに繋がりかねない事に気が付いていないのである。
大阪府の橋下知事も「財政再建」の話が出てこないことを心配しているのだが、多くの議員の話を聞いていると「次の選挙の心配」しかしておらず、今の日本に「如何に財政再建が必要な課題か」と言うことを説明する努力をしていない。
次の選挙の心配しかしていないのだから、「民主党が飴をぶら下げたから俺たちも・・・・」と言う程度のことしか考えていないのである。
民主党がぶら下げた「飴」には「財源の裏付けがない」と言う「重大な欠陥がある」ので、必ず後から「ムチ」が出てくることは間違いないことで、公明党の主張も、麻生幹事長の主張もなんら代わることはないのである。
飴に釣られておびき寄せられて、「気が付いたらムチが待っていた」と言うことになり、かなり前に書いた「ダボハゼ」と同じことになってしまう。
真の政治家であるならば「政治生命をかけて財政再建の重要性を説く」と言うことをするべきなのだが、そんな気骨のある人など「とうの昔に絶滅した」ようである。
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野次馬(外野)

2008年09月04日 03時44分26秒 | Weblog
安部元総理のときもそうだったが、福田総理の突然の辞任劇に日本国中が騒然としているのだが、どう考えてみても「野次馬(外野)が勝手なことを言っている」としか思えないのだが・・・・。
突然の辞任を「無責任に放り出した」などと言う声もあるが、無責任なのは「国民を含めた周りの人」の方ではないだろうか・・・・。
総理大臣と言う役職は「国の最高責任者」ではあるが、超能力を持っているわけでもなく、スーパーマンでもない。
「最高責任者であれば何でも出来る」と考える向きもあるかもしれないが、現実には「周りの協力がなければ何も出来ない」と言うのが実情で、安部、福田と、二代続けての突然の辞任劇も「当然の結果」と言うしかなく、「二度あることは三度ある」と言うことにならぬように気を付けなくてはいけないのだが、果たして「三度目の正直」と言うことになってくれるだろうか?・・・・。
私の予感では「悲観的な結果になる」様な気がしてならないのだが・・・・。
「悲観的な結果」とは、「また突然辞任する」と言うことではなく、「解散総選挙になり民主党政権になる」か「選挙対策用の減税で、国の借金(赤字国債)が増大してしまう」と言うことである。
「民意を反映する」と言うと、一見「正論」のように見えるのだが、これは「とんでもない過ちだ」と言うことに気が付く人がどれだけいることだろう。
「民意」と言うものはかなり自分勝手なもので、言わば「我田引水と同じ」と考えるべきで、水(税金)が沢山あるときは何とかなるかもしれないが、旱魃(税収不足)の時にはとても応えることなど出来るはずがなく、ワークシェアリングならぬ「マネーシェアリング」が必要なのだが・・・・。
「対岸の火事を見る野次馬」のような気分でいると、「気が付いたら自分のうちが燃えていた」と言うことになるであろう。
今の日本が置かれた状況は「尻に火が付く直前」のようなもので、尻に火が付いてからあわてても手遅れなのだが・・・・。
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刃をもって事を成せば・・・・・・

2008年09月03日 04時22分38秒 | Weblog
テレビドラマ「篤姫」の中で、薩摩藩主「島津斉彬」の言った言葉なのだが、「刃」の部分を変えるといろいろなことに当てはまることを知っているだろうか・・・・。
刃を「安売り」に変えて考えてみると、どこかの店が安売りをすれば、他の店も対抗して安売りを始め、「安売り合戦」が始まってしまうのである。
「値段が下がる」と言うことは、単純に考えると「消費者にとっては喜ばしいこと」と言えなくもないのだが、その結果として「体力のない零細な店が消える」と言うことになり、「格差が大きくなる」と言う副作用が出てくるのである。
かなり前の話だが、「価格破壊」と言う言葉がはやったが、その結果が現在の姿なのである。
政治の場においても、刃を「目先の選挙対策用の政策」に変えて考えてみてほしい。
「目先の選挙対策用の政策」では、「日本の将来」などと言うことは微塵も考えられていないのだから、オーバーな言い方かもしれないが「日本の将来は闇の中」と言えないだろうか・・・・。
どちらに進んでも問題が山積みの現状は「前門のトラ、後門の狼」と同じ事で、「無傷で済ませる」などと言うことは到底不可能なことで、「如何に傷を浅くするか」と言うことを考えるべきだと思うのだが・・・・。
福田総理の後任に麻生さんが立候補するようであるが、私に言わせれば「誰がやったって結果は同じようなもの」と言う状態の中で「良くぞ立候補する気になった」と言いたいのだが、これもめぐり合わせなのだろう。
「火中の栗を拾う」のと同じようなもので、大怪我をしないように祈るしかないのだろうか・・・・。
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弱いものいじめ

2008年09月02日 22時24分27秒 | Weblog
いじめと言うと、「教育現場で子供たちがするもの」と思われがちであるが、実は、実社会のほうが「巧妙で陰湿」ないじめがはびこっている。
突然いじめの話が始まって「いったい何のこと?」と思う人もいるだろうが、今回の「福田総理の突然の辞任(政権の放棄?)」と言う事の背景には、「野党どころか、与党仲間の公明党、そして多くの国民」までもが「集団的にいじめた事によるもの」だと私は思っている。
タイトルの「弱いものいじめ」には、「弱い立場にいるもの」も含まれていると言うことを前提に考えてほしい。
「総理大臣が弱い立場?」と考えるかもしれないが、「すべての責任を負わされながら、簡単に逃げ出すことは出来ない」と考えれば理解できるだろう。
私自身の経験から言えば、総理大臣などと言う大役を引き受けたことはないのだが、「難しい状況でのリーダー的立場」を押し付けられたことが何度もあるのだが、私の場合に限らず「リーダーが決まったとたん、ほとんどの事がリーダー任せになる」と言う問題にぶち当たるのである。
「リーダーなんだから何とかしろ」などと、周りの人間の多くが「他人事」のような態度をとるようになり、上手くいっているときは良いのだが、「都合の悪いことになるとそっぽを向く」のである。
「うまく行けば皆の手柄、失敗すれば・・・・」と言うことでは、とてもリーダーなど引き受けられないのだが、表向き「自ら立候補した」と言う経緯を考えると、「それ相応の覚悟」があったのかもしれないが、別な見方をすれば「生まれた時代が悪かった」と言う言い方も出来るだろう。
小泉元総理は「良い時代に総理になった」と言うことで、今の状況で総理になったとしても「同じ轍を踏む」のが関の山ではないだろうか・・・・(当の本人は、そのことがわかっているので顔を出さない?)。
後任に、麻生さんが立候補するような報道が流れているのだが、安部・福田と二代続いた「突然の辞任劇」の「第三幕」と言うことにならなければ良いのだが・・・・。
それ以上に心配なのが「政権を野党に譲って、国民の声を聞け」などと言うばかげた話も流れているが、「とんでもない話」で、現実のものにならなければよいのだが・・・・。
今の国際的な経済情勢(特に日本の)を考えれば、公明党の主張する「選挙対策用の大型減税」など、「所詮は一時しのぎに過ぎない」どころか、後になって「大きな副作用に苦しめられる」と言うことを忘れてはならないだろう。
これは、民主党が政権を担った場合も同じことが言えるだろう。
繰り返して言うようだが、北欧の人たちように「納税は貯金」と言う意識を持ち、その上更に「減税は借金」と言う意識も持たなければならない「大変な時代」になってしまったのである。
「誰がこんな時代にしたのか?」などと考えても無駄であろう。
強いて言うなら、「運命(宿命)」または「巡り合わせ」と言うより仕方ないと思うのだが・・・・。
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福田総理、突然?の辞任

2008年09月02日 03時32分13秒 | Weblog
今、日本中が「福田総理の辞意表明」で揺れていることだろと思うのだが、私に言わせれば「よく我慢をしていたものだ」と感じられてならない。
野党ばかりでなく、一般市民からも「無責任・・・・」と言うことが言われているのだが、このことも私に言わせれば「無責任と言う人の方がはるかに無責任」と言いたい。
誰かがやったことを「アレコレ批判する」と言うことは簡単なことで、あまりほめられた事ではないだろう。
「福田総理の後を誰が引き継ぐのか?」と言うことも話題になっているのだろうが、これも「誰が総理になろうが、大同小異でしかない」だろうと思うのだが・・・・。
小泉元総理の再登板を期待する声もあるようだが、衆参両院の勢力が逆転している現状では「小泉の力をもってしても無理」と言うほかなく、「波乱含み」などと言う「生易しい状態」ではないだろう。
地球の温暖化問題、原油の高騰、鉱工業の原材料の値上がり、・・・・・、と、「景気回復にとってマイナス要因」ばかりが出揃ってしまった現状で、有権者の多くが「景気回復を望む」と言っている以上、日本の将来は「悲観的な見方しかできない」と思うのだが・・・・。
「納税は貯金」と言う北欧の人たちの考え方を当てはめるならば、「日本人は貯金が嫌い」と言うことになり、万一の時にはどうしようもなくなってしまうだろう。
「貯金が嫌い」と書いたのだが、「景気回復のためには赤字国債の発行もやむを得ない・・・・」などと言っていることから考えると、「借金が好き」と言う方が正しいのかもしれない。
それにしても困ったもので、政府ばかりでなく「学識経験者・各種報道機関」までが、「赤字国債・地方債は借金だ」と言うことを多くの国民に認識させていないため、「日本は借金大国だ」と言う自覚を持てずにいる。
これ以上借金が増えれば、その先に待っているものは「借金地獄」だと思うのだが・・・・。
このような現状で、次の総理大臣を「いったい誰が引き受けるのか?」と言う興味がわいてくるのだが(不謹慎?)、なんとなく「名誉欲」でなるような気がしてならないのだが・・・・。

これは私の子供が中学生だったときの話であるが、私に「地元中学校のPTA会長になるチャンス?」が巡ってきたのだが、無理をすれば引き受けることも出来たのであるが、ある事情から辞退することにした。
2年のときに副会長だったので、「3年になると自動的に会長になる」と言う暗黙のルールがあったのだが、引く受けていれば「安部元総理、福田総理と同じ道をたどる危険が大」だったので、「非常手段?」を取って辞退したのである。
「私には名誉欲はない」と言ったらウソになるが、「危険を承知で引き受ける」と言うほどの名誉欲はない。
人間性に問題があるのか、昔から何かで先頭に立つと、「必ず」と言ってよいほど「足を引っ張るやつが現れる」と言うことで、何度も嫌な思いをしてきているのである。
私自身は「目立ちたくない」と思っているのだが、いつの間にか目立つ位置にいて、「目立ちたいと思っているのに目立てない」と言う輩の「嫉み」を買ってしまうのである。
つくづく「世の中ってうまく行かないものだなーーー」と思う今日この頃である。
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社会に出て役に立つ勉強

2008年09月01日 04時44分34秒 | Weblog
「学校の勉強など社会に出て役に立たない」と言う話をよく耳にするのだが、「社会に出て役に立つ勉強」とは一体どんなものなのだろうか・・・・、。
以前にも同じようなことを書いているのだが、「一人一人が将来どの道に進むのかわからない」と言うことばかりでなく、「時代(社会を取り巻く環境)がどのように変化するかもわからない」以上、「社会に出て役に立つ勉強」などあるはずがないだろう。
「明日何が起きるかわからない」と言うのに、「なんと馬鹿げた考え方」と、私は言いたくなってしまう。
そこで少し発想を転換して考えてみたいと思うのだが・・・・。
「発想を転換する」と言うことは、「新しい答えが出る」と言うことにもつながると思うのだが、その一つの例として「知らない土地に旅行に行く」と言うことを考えてみたい。
「知らない土地」と言うことは、「何が起きるかわからない」と言うことと同じで、「様々なことを想定して準備をする」と言うことが必要で、「準備不足が命取りになる」と言うこともある一方で、「無駄になる」と言うことも当然出てくるのであるが、「準備をするに越したことはない」と言うように、学校の勉強も「しておくに越したことはない」と言えるだろう。
「役に立つか立たないか」と言うことは、「その時になってみなければわからない」と言うこともあるが、その一方で、勉強の場合は「時代遅れになる」と言う問題も起きてくる。
時代遅れになるものを学んだとしても「骨折り損」になるのが関の山だろう。
学校で学ぶものは「超高層ビルを立てるための基礎」と考えるべきで、「基礎の出来不出来が、ビルの大きさを決める」と言うことに気がつくべきだろう。
「基礎が貧弱ではビルが立たない」のだから、学校の勉強(受験のための勉強ではない)をおろそかにしないほうがよいと思うのだが・・・・。
後になって気がついても、「後の祭り」「後悔先に立たず」なのだから。
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