へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

豊か?な時代に思うこと

2009年01月11日 04時11分16秒 | Weblog
現在の社会を「豊かだ」と思うか「豊かではない」と思うかは、個人個人の価値観や年齢などによって大きく変わってしまうため一概には言えないのだが、私個人の意見を言うならば「今の社会は豊かで恵まれすぎている」と思えるのだが・・・・。
花便りに河原真さんが昔のことに関するコメントを寄せてくれたのだが、それに対する私のコメントが不十分であったため、ここに改めて昔の話(と言っても50年か60年前の私が知っている範囲の話だが)を少し書いてみようと思う。
昭和17年に生まれた私は終戦当時はまだ3歳だったので、終戦直後のことは記憶にないのだが、小学校に入った昭和24年頃からの記憶はかなり残っているのだが、その中でも特筆すべきことは「客車が足りないために屋根の無い貨車に乗って田舎に行った」と言うことである。
確か「トム」と言う貨車で、「ワム」という屋根のある貨車にも乗った事があるのだが、入り口の扉は無く、縄(ロープなどと言うしゃれたものではありません)が張られているだけでしたが、みな黙って乗っていたように思います。
食べるものにしても、今では想像も付かないような粗末なもので、味の記憶は無いのだが、「サツマイモのツル」を食べたこともありました。
学校給食も、本来であれば小学1年のときから始まっていたのだが、私の通っていた小学校では4年になるまで給食は無かったのですが、給食の実施が遅れた学校もあったようなのだが、私が通っていた小学校は別な理由で給食が無かったのです。
その理由とは、戦災により校舎が消失して不足していたため「午前と午後の二部授業(午前と午後では別な児童が勉強する)」だったので、給食は無かったのです。
何しろ、新しい学校が2つ出来て児童が分散した後でも、6学年で1000人もの児童が残ったほど沢山いたのですが、「団塊の世代」はまだ含まれていません。
給食にしても、今とは比べものにならず「飢えをしのぐ事が主な目的」と言ったレベルで、「コッペパン一個におかずとミルク」と言うのが基本パターンでしたが、この「ミルク」が曲者だったのです。
何しろ「日本の飢餓を救う」と言う目的でアメリカから援助された粉ミルクを溶かしたもので、「スキムミルク」を連想する人もいると思うのだが、味はとても比較になりませんし、色もピンクやブルーの場合もよくあり、思わず「エッ?!」と思ったものですが、他に飲むものもないのでみな我慢して飲んでいたようですが、残す人もかなりいましたが、その一方で、私も含めた数人は「おかわり」をしましたが、けして好きで飲んでいたわけではなく「飲んでおかないと体力が持たない」と言う意味合いが大きかったと思いますが、その中の一人は特に家が貧しく「コッペパンは幼い兄弟のために残し、ミルクを飲んで我慢した」と言うのが実情だったのです。
しかしながら、このような経験をしたのは私くらいの世代までで、少し後の「団塊の世代」になると大きく様変わりを始めてくるのですが、私より年長の人でも「昔の大変だった頃の記憶」を忘れてしまった人が大半なのではないだろうか?。
昔のことを思い出せば「不景気なんてどうということも無い」と言うのは言い過ぎだろうか・・・・。



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ワークシェアリングには「マネーシェアリング」も必要なのだが・・・・

2009年01月09日 03時07分53秒 | Weblog
景気の悪化により職を失う人が増えたことにより、ワークシェアリングに関する話が出てきているのであるが、「マネーシェアリング」に関する話は殆ど出てこないのだが、ワークシェアリングとは「少しずつ仕事を分け合って仕事の無い人を無くす」と言うことなのだが、仕事を分け与える人の側には「仕事は分け与えるがお金は分けない」と言う意識が強い。
「仕事が減る分収入も減る」と言うことには強い抵抗感があるのだろうが、「給与はそのままで仕事だけ減らしてその分人を増やす」などと言うことが出来るのであれば、そもそも「派遣切り」「内定取り消し」などする必要がないのであるが、そのことにまで考えが及ばないのだろう。。
仕事を失った人のためにワークシェアリングを行うことは重要なことだとは思うのだが、それを実行に移すためには「マネーシェアリングが必要だ」と言うことをはっきりと説明する必要があるのだが、非常に残念なことではあるが「選挙対策上都合が悪い」と言うことで表立って話題にはしないのである。
半年前までは就職戦線も「売り手市場」で、企業は人集めに苦労していたものが、突然の景気悪化により一気に「買い手市場」へと立場がまったく正反対になってしまったのだが、「世界的規模の景気悪化」と言う状態では「このまま収束に向かう」と言うことは期待できそうもなく、まだまだこれからも新たな問題の発生を覚悟しなくてはならないと思うのだが・・・・。
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新春早々ドジなことをしてしまった

2009年01月05日 19時26分25秒 | Weblog
元旦にコンビニから宅配を頼んだのだが、予定した日に届かなかったのである。
宅配便も正月で人手不足?と思っていたところへ電話が来たのだが、その電話は宅配業者からのもので「記載された住所に該当する家が無く、電話も『現在使用されておりません』と言うことで配達できないのですが・・・・」と言うのである。
思わず「エ?!」と思ったのだが、伝票に書いてある住所と電話番号を確認したところ「どちらも1っ箇所間違っている」のがわかったのである。
選りによって両方とも間違っているとは、我ながらとんだドジを踏んだものである。
これで見ると「年のせい?(ボケた?)」「正月で酒を飲んで酔っ払っていた」と思う人も多いと思うのだが、けして年のせいでも、酒のせい(私は飲みません)でもありません。
自分で書くのも恥ずかしいのだが、幼少?の頃から「ドジで間抜けは専売特許」で、その上更に「忘れ物の名人」でもあるのです。
「思い違い」「勘違い」「ド忘れ」「忘れ物」・・・・などで何度恥を欠いたことかわからないのであるが、一度失敗をするとしばらくは注意しているので問題は起きないのだが、悲しいかな「効果は長続きしない」のである。
私を知らない人は、チョット見「真面目で神経質で間違いなどしない人」と思う人が多いのだが、本当の姿は「ドジで間抜けでオッチョコチョイなお笑い系キャラ」なのである。
若い頃は「ネクラな生活」をしていたので、自分は「ネクラな人間」だと思っていたのだが、歳をとるにつれて「生活環境のせいでネクラになっていただけで、本当はネアカでは?」と思うようになり、今では「ネアカな人間」になり、馬鹿や冗談を連発して周りの人を????と思わせています。
「笑う門には福来る」「泣いて暮らしても一生は一生、同じ暮らすのなら笑って暮らそう」と言う言葉もあるように、景気が悪いからと言って暗い顔をしないで、暗い時こそ笑って暮らしたいものである。
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「魚は骨があるからいやだ」

2009年01月04日 03時47分03秒 | Weblog
学校給食に関する新聞記事に書かれていた子供たちの言葉であるが、学校給食に限らず、「社会全般がめんどくさい事を嫌い、好き嫌いをはっきり前面に出してくる」と言う傾向が強くなっていると思う。
「魚は骨があるからいやだ」と言って、骨の無い部分だけを食べている事がどの様な副作用をもたらすか考えたことがあるのだろうか?。
「副作用?」と疑問に感じるかもしれないが、実社会では「魚(仕事)は骨(問題)があるからいやだ」などと言っていてはとてもやっては行けないだろう。
いささか飛躍した話をしてしまったが、もっと身近な話として「骨を取る」と言う面倒な作業にも重要な役割がある事を考える必要があるのだが、現実にはそれ以前の問題でつまずいているのだろう。
「それ以前の問題」とは、「お箸をうまく使えない」と言うことにあるのではないだろうか。
お箸がうまく使えなければ骨を取ることは難しく、結果的に「骨のある魚を嫌う」と言うことになるのだろう。
そして「お箸がうまく使えない」と言うことは「指先が器用ではない」と言うことと同じで、「指を使うと脳が活性化する」と言われていることから考えれば、「魚は骨があるからいやだ」と言うことは、「脳の活性化を妨げ、無気力な子供を増やす」と言うことになるのではないだろうか・・・・。
これは「好き嫌い」にも言えることで、好きなものばかりを求めていれば「我慢する」と言うことが出来なくなり、「些細なことで切れる」と言うことにもつながるであろう。
「お金さえあれば何でも手に入る」と言う豊かな社会の裏で、「人間の心が蝕まれている」と言うことにも注意が必要だと思うのだが・・・・。
あくまでも私個人の考えではあるが「好き嫌いなく何でも食べる人は健康で、好き嫌いの激しい人ほど病気になりやすい」と思っているのだが・・・・。
アレルギー体質の人にも言えるのではないかとも思っているのだが・・・・。
私が健康でいられるのも「好き嫌いはほとんど無い」と言うこともあるが、食事の基本は「好き嫌いより、栄養のバランスを優先する」と言うことにあると思っている。
所謂「医食同源」である。
「健康に勝る宝なし」と言うではないか。
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年が明けて改めて思うこと

2009年01月02日 03時08分42秒 | Weblog
新年明けましておめでとうございます。
在り来たりな文句で初めてしまうことに少し後ろめたさは感じるのだが、今年もよろしくお願いいたします。
さて、私のブログも含めて世に中には様々な意見があるのだが、一体どれが正しいのだろうか・・・・。
結論から言ってしまえば「どの意見も正しいが、間違ってもいる」としか言いようが無いのだが、「ふざけるんじゃない!」とお怒りになる方もいるとは思うのだが、冷静になって考えていただきたい。
世の中には様々な意見の対立が日常茶飯事のごとく起きているのだが、この意見の対立が起きる原因を考えてみた事があるだろうか?。
一つのわかりやすい例を書くなら、「売る側と買う側」を考えてみてほしい。
売る側は「少しでも高く売りたい」と考え、買う側は「少しでも安く買いたい」と、まったく正反対の考えを持っているので、「言う側にとっては正しい意見でも、相手側から見ると間違っている」と言うことになってしまうのである。
このことは「雇用主(企業)と労働者(通常、労使対立と言うが)」「税金を集める側(政府)と税金を納める側(国民や企業)」「教える側と教わる側」「男と女?」・・・・・と、世の中には正反対の考えを持つ人が無数にいるのである。
「正反対の考え方」は「水と油」と同じようなもので、仮の話し、上手く合意させることが出来たとしても、「永久に合意状態を保つ」と言うことは難しいことで、何かの弾みで「元の状態に戻る」と言うことは珍しいことではないだろう。
更に厄介なのは「三人よれば文殊の知恵」と言う一方で、「二人いれば意見の対立が起きる」と言うように、そのときの状況によっても違う答えが出てしまうから厄介なのではあるが、解決策がまったく無いわけではないのだが・・・・。
数少ない解決策の一つに「相手の話を良く聞く」と言うことがあるのだが、これは「言うは易し、行なうは難し」と言うほか無いであろう。
「相手の話を良く聞けば、相手もこちらの話を聞いてくれる」と言うことになるのだが、「何でも多数決で決めたがる」と言う傾向が強い日本人には難しい話ではあるが、「こちらが自己主張をすれば、相手も自己主張をする」と言うことになるのだから、発想を転換すれば問題は簡単に解決しそうなものなのだが、事はそう簡単に行かないから困るのである。
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