日本語全史、古代前期を読んだ。
国語史の力作である。
日本語の変遷を通史に記しているとあるわけだから、まだその入り口での感想はこれまでのことである。
国語史といったのは、すでに述べてきているように、音韻、文法、語彙に沿って文献実証をしようとしている。
古代はその論法、手法ですれば、日本語とすべく、国語によるこれまでの音韻史、文法史、語彙史に証拠、エビデンスを得ることになる。
それは、はしがきに現れていたことで、引用するまでもないが、次のようであった。
一籌を輸することになる、話し言葉の文献証拠としてのとらえ方である。
そも、この話ことばが日本語史の記述にどう現れるかという説明が唐突であったので、話し言葉の歴史とすること自体が疑問になるが、それは、古代以降、時間を追ってくると、その証左を何に得ようとするか、気になるところである。
国語史の力作とするゆえんである。つまり、言語の歴史をもとめて、話し言葉とする歴史は言語学のセオリーを踏まえようとする発言であって、それは言語の本質を音声に見る立場であることを、その記述に類推しようとするが、言文一致の考え方がどうにも時を経ての概念として、この歴史を日本語史に語るときの時代錯誤である。
これは、形態論をもって、古代史の言語現象を分析しようとする危険な橋渡にもみえて、その橋を踏む轍がある。
国語は見事に仮名文字の音韻で歴史を記述して見せてきたのであるから、その時代にに合った、音韻学がサンスクリットであるか、梵語学と称すべきか、その一方で編まれて取り入れている漢語の音韻であることを、どのように表記の分析として、音素と折衷させるかという困難である。
この著書の出発点にある日本語をどう見るかがその基本にあって、さらにそれに加える言語学の近代に見る理論をもってなにを語るかである。
古典語に、それは日本語を国語といってきた時代の分析で、カタカナの用語に見る文法の違和感を思うことである。
>話しことばに基づいて文章を書くことを言文一致という。
<はじめに 13頁>
この前提で説明する章節に、11世紀までに古典語があり、それがその後に、文法的な体系変化があったとする。古今和歌集と源氏物語を模範とした書きことばが用いられるようになった、という記述で、論理根拠がずれていると、平安時代の言語体系を模倣して、書きことばの固定化、つまり文語があるという歴史解釈の視点は、文語を模倣しようとしたずっと後世の時代の国学に見えることである。言わゆる擬古文のことを指して、それを日本語とすることになる。
言文一致は文体の改革にある、と説明が、辞書、百科辞典に委あるように、その視点を持つと、明治期の書きことばが漢文訓読調の文語と、極端に言えば庶民の用いる饒舌調の口語とが、日常の用途において乖離しているということであるから、その言葉を同じにするにはどうするか、西欧からの文献を入れた書きことばの革新を範として進めることであった。
第1章 古代前期
奈良時代まで
総説 古代語が確立する
文字表記 日本語が漢字で書かれれう
音韻 区別される音節の数が多い
語彙 固有語が用いられる
文法 古代語法が形成される
以下は、言文一致の辞書、百科辞典の解説である。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
言文一致運動
げんぶんいっちうんどう
日本で明治から大正にかけて行われた,書き言葉を話し言葉に近づけようとする運動。一般に文字をもつ言語では,書き言葉が古い形にとどまりやすく,話し言葉との差が大きくなっていくが,日本でも,明治になって読み書きする階層が広がるにつれて,両者の違いによる不便が痛感され,文筆家によって言文一致の運動が起された。古くは慶応2 (1866) 年の前島密 (ひそか) の『漢字御廃止之儀』にその主張がみられる。「言文一致」の語は 1886年物集高見 (もずめたかみ) が初めて用いた。小説家では山田美妙が「です調」,二葉亭四迷が「だ調」,尾崎紅葉が「である調」の新文体を試みた。 1900~10年の言文一致会の活動によって,運動は一応の確立をみた。なお,この運動で試みられたさまざまの文体を総称して言文一致体と呼ぶ。
デジタル大辞泉の解説
げんぶんいっち‐うんどう【言文一致運動】
言文一致により、思想・感情を自由・的確に表現するための文体革新運動。明治初期に起こり、二葉亭四迷・山田美妙・尾崎紅葉らが各自の作品に試みてからしだいに普及し、現在の口語文に至る。
国語史の力作である。
日本語の変遷を通史に記しているとあるわけだから、まだその入り口での感想はこれまでのことである。
国語史といったのは、すでに述べてきているように、音韻、文法、語彙に沿って文献実証をしようとしている。
古代はその論法、手法ですれば、日本語とすべく、国語によるこれまでの音韻史、文法史、語彙史に証拠、エビデンスを得ることになる。
それは、はしがきに現れていたことで、引用するまでもないが、次のようであった。
一籌を輸することになる、話し言葉の文献証拠としてのとらえ方である。
そも、この話ことばが日本語史の記述にどう現れるかという説明が唐突であったので、話し言葉の歴史とすること自体が疑問になるが、それは、古代以降、時間を追ってくると、その証左を何に得ようとするか、気になるところである。
国語史の力作とするゆえんである。つまり、言語の歴史をもとめて、話し言葉とする歴史は言語学のセオリーを踏まえようとする発言であって、それは言語の本質を音声に見る立場であることを、その記述に類推しようとするが、言文一致の考え方がどうにも時を経ての概念として、この歴史を日本語史に語るときの時代錯誤である。
これは、形態論をもって、古代史の言語現象を分析しようとする危険な橋渡にもみえて、その橋を踏む轍がある。
国語は見事に仮名文字の音韻で歴史を記述して見せてきたのであるから、その時代にに合った、音韻学がサンスクリットであるか、梵語学と称すべきか、その一方で編まれて取り入れている漢語の音韻であることを、どのように表記の分析として、音素と折衷させるかという困難である。
この著書の出発点にある日本語をどう見るかがその基本にあって、さらにそれに加える言語学の近代に見る理論をもってなにを語るかである。
古典語に、それは日本語を国語といってきた時代の分析で、カタカナの用語に見る文法の違和感を思うことである。
>話しことばに基づいて文章を書くことを言文一致という。
<はじめに 13頁>
この前提で説明する章節に、11世紀までに古典語があり、それがその後に、文法的な体系変化があったとする。古今和歌集と源氏物語を模範とした書きことばが用いられるようになった、という記述で、論理根拠がずれていると、平安時代の言語体系を模倣して、書きことばの固定化、つまり文語があるという歴史解釈の視点は、文語を模倣しようとしたずっと後世の時代の国学に見えることである。言わゆる擬古文のことを指して、それを日本語とすることになる。
言文一致は文体の改革にある、と説明が、辞書、百科辞典に委あるように、その視点を持つと、明治期の書きことばが漢文訓読調の文語と、極端に言えば庶民の用いる饒舌調の口語とが、日常の用途において乖離しているということであるから、その言葉を同じにするにはどうするか、西欧からの文献を入れた書きことばの革新を範として進めることであった。
第1章 古代前期
奈良時代まで
総説 古代語が確立する
文字表記 日本語が漢字で書かれれう
音韻 区別される音節の数が多い
語彙 固有語が用いられる
文法 古代語法が形成される
以下は、言文一致の辞書、百科辞典の解説である。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
言文一致運動
げんぶんいっちうんどう
日本で明治から大正にかけて行われた,書き言葉を話し言葉に近づけようとする運動。一般に文字をもつ言語では,書き言葉が古い形にとどまりやすく,話し言葉との差が大きくなっていくが,日本でも,明治になって読み書きする階層が広がるにつれて,両者の違いによる不便が痛感され,文筆家によって言文一致の運動が起された。古くは慶応2 (1866) 年の前島密 (ひそか) の『漢字御廃止之儀』にその主張がみられる。「言文一致」の語は 1886年物集高見 (もずめたかみ) が初めて用いた。小説家では山田美妙が「です調」,二葉亭四迷が「だ調」,尾崎紅葉が「である調」の新文体を試みた。 1900~10年の言文一致会の活動によって,運動は一応の確立をみた。なお,この運動で試みられたさまざまの文体を総称して言文一致体と呼ぶ。
デジタル大辞泉の解説
げんぶんいっち‐うんどう【言文一致運動】
言文一致により、思想・感情を自由・的確に表現するための文体革新運動。明治初期に起こり、二葉亭四迷・山田美妙・尾崎紅葉らが各自の作品に試みてからしだいに普及し、現在の口語文に至る。