現代日本語百科   けふも  お元気ですか

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大疑問

2024-02-09 | 本を読みます
  踊り字はそれだけでは読めないのに何と読むという質問が合わないと新聞広告を見ている。その答えにはまた、広告でそのまま同の字点としている。出版社のコピーだから本は実際にどう書いているだろう。 柳の下に2匹目を見つけたか、ドジョウがにょろにょろ。 コピーを確かめるべく広告サイトに行くとあとがきのような宣伝もついていたから引用しておこう。 1冊目を読んだときにばらばらの書きように、国研ら . . . 本文を読む

日本語による哲学

2020-01-16 | 本を読みます
日本語哲学というなら、英語哲学、ドイツ語哲学、そのような言い方があるのか、言語哲学というのがあるから、日本語という言語による哲学ということになりそうである。ウイキペディアの、次に見える二つを、言語の哲学と、言語的哲学と、その立場を設定しての議論が必要である。言語哲学というと、言語そのものの哲学のようであるから、もともと哲学は言語によるとして、その言語手段にはどの言語にも通用する普遍性があると考えてよいはずである。だが、どうもそうはいかない。 . . . 本文を読む

日本語の哲学

2020-01-15 | 本を読みます
日本語の哲学へ (ちくま新書)2010年の出版、レビュー11件は対立して、生産的なコメントではないから、やはり、日本語哲学、日本語による哲学、日本語の哲学と、おれぞれ哲学の議論はじめとなる、ようである。 日本語の哲学へ (ちくま新書) (日本語) 新書 – 2010/9/8 長谷川 三千子 (著) 内容(「BOOK」データベースより) 「日本語の哲学」を目指すとは、いったいどんなことなのか . . . 本文を読む

日本語の値段

2018-10-12 | 本を読みます
おかしなタイトルと思いつ、井上史雄氏の著書であるので、その発想が言葉の格差だという。形のないものに値段がついているとなれば、それはまた、いくらでもありそうな気もするが、日本語の格付けを世の流行りにしたがってするというようなことである。社会言語学の立場をお持ちである。日本語の言語市場、知的価値、情的価値、次いで、格付けに及び、市場価値とその変動、日本語試験、ついてはそこで、ことばに値段がつく時代となる。あとには、新方言の話などが続く。さて、値段という語である。値打、価値、価格という。正価、売価、売値、安値と、これまた、経済用語になるか、ならないか、販売価格に相当するネーミングである。ネダンといって、命の値段などいえば、それでまた、値千金の意味を持つから、日本語の値段は比較対照して、ほかの言語の値段と大いに異なりそうである。そこで、知的価値、情的価値における日本語を格付けするとどうなるか。 . . . 本文を読む

物語分析

2018-08-24 | 本を読みます
http://www.wind.sannet.ne.jp/masa-t/tougobunseki/tougobunseki.html >  リトアニア人の構造主義記号論者、アルグリダス・グレマアスは、説話の今までに知られている構造を生成できる、説話の文法を提案した(Greimas 1983; Greimas 1987)。Proppの七つの規則を‘記号論的に還元’した結果、彼は説話の統語体として三 . . . 本文を読む

耋録である、耄碌でない

2017-08-02 | 本を読みます
言志四録(4) 言志耋録 (講談社学術文庫) (文庫) 著者: 佐藤 一斎, 川上 正光  てつろく、と読む。耋字の意味するところ、80歳である。高齢の90歳をも指し示すが、言志耋録の著者には、はしがきで、80歳になったことを言う。嘉永四年、1851年、夏五月、一斎老人自題と見える。はしがきに、一息でもあるからには学問をやめるべきではない、一息の存する、学廃すべきにあらず、とあり、単記して一篇となしたものを、名付けた耋録である。340編を飾る掉尾には、臨終の心得が示されている。生年月日、1772年11月14日、死亡、1859年10月19日。>儒学の大成者として公に認められ、天保12年(1841年)に述斎が没したため、昌平黌の儒官(総長)を命じられ、広く崇められた。当然、朱子学が専門だが、その広い見識は陽明学まで及び、学問仲間から尊敬をこめて『陽朱陰王』と呼ばれた。門下生は3,000人と言われ、 . . . 本文を読む

聞こえにくいのに、言の葉を

2017-07-24 | 本を読みます
聞こえにくい子供たちに言の葉を ――ともに輝きつづけるために、聾・難聴児教育の現場から―― 加藤和彦さんから、いただいた本である。タイトルに示されるように、国語科目の実践をつづっている。生徒児童は聴覚を持たない、あるいは失っって、聾教育、養護教育を受けるか、普通教育を受けている。この著作は、著者による願いである。子たちの声を聴きたい、子たちが持つ発想を知りたい、子たちが言葉を紡ぎだすのを知りたい、それを一言でとらえるのは難しいが、子たちに描画を以て、ときには略画で子たちの声を引き出そうとする試みである。しかし、声は聞こえないのであるから、その発想に触れて、その子の持つ言葉を引き出すには、その脳内言語の教育をどうすればよいかと問いかける。おそらく著者は聾者に対する言語教育の方法を自らの信念で子供の思考に寄り添うことを主張している。おそらくというのは、そうでない教育方法を批判して自らの授業を実践し続けているからである。そのそうでない教育とはどんな教育方法か、それが著者の批判する方法であるだろうが、それはこの著作には語られていない。ただし、国語教育とは何かを問い続けている。ここであえて、国語に対する批判に読者なりに感想として述べると、言語教育としての音声、文字のいっぽうを欠く児童に対する方法がないから、音声指導に準ずる形での補償教育の方法についての不完全さにある。音韻をとらえきれない教育現場である。文字は手話教育で成り立つことがある。文学教育としての学習の素養にはイメージを伴う解釈が求められて、それを得意とする教師、生徒児童はまた限られることである。くわえて、国語のしつけはアイデンティティーの確立に寄与する教育であるから、国語そのものを拒否する結果となる障碍者にはその学習が非常に困難になることである。  . . . 本文を読む