用語を術語として専門用語に表現語彙、理解語彙がある。
いずれもわたしたちが日常に使う語のことである。
これは計測が困難である。知る単語の数を挙げよと言われて、日本語ではと数えはじめて、あなたが知っている語彙のうち、その単語の数はいくらですかと聞かれるようなもので、記憶と記録を語彙調査するわけにいかない、それを成し遂げられるものではないからである。
しかし、おおよそのことであるなら、その凡そがまた、おおよそに過ぎないので、いい加減なことであるが、中には辞書を片手に調べ始めたようなこともある。
収載語彙数に対して自らが知る語をカウントして、どれくらいの単語量があるかというのチェックしていけばよい。
英単語ならそういうことを経験することもあるだろう。
そこに、日本語を確かにする方法として、国語の辞書は漢字記載があればほとんど理解をしてしまうことのできる日本語はどうすればチェックできるか、と言うので、和英辞典を項目にして、ローマ字表記の単語を、日本語としての単語数、その理解を計測するということをした人がいるようだ。
たしかにそれならば、日本語語彙にある単語をどの程度理解しているかを計ることになる。
高校生を実験対象にしたそうだが、その数をいくつの語彙量としたか、知るところがない。
理解語彙はそのようにすればまた、連想的にも語彙量は捉えられることにもなる。
さきの国語辞典を開いてどこにしても、その単語を連想できれば数値はその辞書の範囲に収まって、収載語数をカウントしてある程度は見当が付けられる。
ひところの国語辞書はカタカナ語の収載をすることをはじめ、新語造語の類には編集の考え方があってどの辞書も共通するようなことがあった。
百科項目の辞典のように固有名詞による地理、歴史などを解説すれば、それは語数も膨大なものとなる。
いまは、それを競うかのように、流行語のようなもの、はては、うちら語の若者の言葉をも、加えてネットのいわばスラングまでも上げる辞書が出てきたので、その考え方も異なるところである。
理解語彙として、日本語が言われたのは4万語前後であった。
根拠を挙げれば、日常語の中で雑誌新聞の類に用いられた言葉を計数したものである。
すると、その単語数に若干の計数をして、一般成人に対する10代の平均的な語彙を、少なく見て2万5千語から、それより低い数値とした。
あるいは現代語にして多く見積もるようなことがある。実際に専門の語を加えた大学生の学習する語数を加えたら、それは3万語を超える。
そこに時事用語など単語などの理解を見れば、実際には計数をすることでたしかにしなければならないが、4万語を超えて教養と専門を持つ語数になるだろうか。
それに対して表現語彙は、また使用語彙とも言われるもので、それは理解語彙に対する語数の比較で論じられることになる。
実際にはその使用の範囲で計数すればわかることになるが、ふつうう、表現語彙、使用語彙となったときにそれは発表できる語彙とし、その使い手の記憶にあるものを取り出すようなことを指し示すので、辞書を見ないで取り出した使用語彙と言うようなことになる。
そうなれな日本語の語彙と言うことだけによどまらず、その人が持ちうる語彙量となって、どうすればその語彙を計測の対象とすることができるか、興味ある課題である。
いずれもわたしたちが日常に使う語のことである。
これは計測が困難である。知る単語の数を挙げよと言われて、日本語ではと数えはじめて、あなたが知っている語彙のうち、その単語の数はいくらですかと聞かれるようなもので、記憶と記録を語彙調査するわけにいかない、それを成し遂げられるものではないからである。
しかし、おおよそのことであるなら、その凡そがまた、おおよそに過ぎないので、いい加減なことであるが、中には辞書を片手に調べ始めたようなこともある。
収載語彙数に対して自らが知る語をカウントして、どれくらいの単語量があるかというのチェックしていけばよい。
英単語ならそういうことを経験することもあるだろう。
そこに、日本語を確かにする方法として、国語の辞書は漢字記載があればほとんど理解をしてしまうことのできる日本語はどうすればチェックできるか、と言うので、和英辞典を項目にして、ローマ字表記の単語を、日本語としての単語数、その理解を計測するということをした人がいるようだ。
たしかにそれならば、日本語語彙にある単語をどの程度理解しているかを計ることになる。
高校生を実験対象にしたそうだが、その数をいくつの語彙量としたか、知るところがない。
理解語彙はそのようにすればまた、連想的にも語彙量は捉えられることにもなる。
さきの国語辞典を開いてどこにしても、その単語を連想できれば数値はその辞書の範囲に収まって、収載語数をカウントしてある程度は見当が付けられる。
ひところの国語辞書はカタカナ語の収載をすることをはじめ、新語造語の類には編集の考え方があってどの辞書も共通するようなことがあった。
百科項目の辞典のように固有名詞による地理、歴史などを解説すれば、それは語数も膨大なものとなる。
いまは、それを競うかのように、流行語のようなもの、はては、うちら語の若者の言葉をも、加えてネットのいわばスラングまでも上げる辞書が出てきたので、その考え方も異なるところである。
理解語彙として、日本語が言われたのは4万語前後であった。
根拠を挙げれば、日常語の中で雑誌新聞の類に用いられた言葉を計数したものである。
すると、その単語数に若干の計数をして、一般成人に対する10代の平均的な語彙を、少なく見て2万5千語から、それより低い数値とした。
あるいは現代語にして多く見積もるようなことがある。実際に専門の語を加えた大学生の学習する語数を加えたら、それは3万語を超える。
そこに時事用語など単語などの理解を見れば、実際には計数をすることでたしかにしなければならないが、4万語を超えて教養と専門を持つ語数になるだろうか。
それに対して表現語彙は、また使用語彙とも言われるもので、それは理解語彙に対する語数の比較で論じられることになる。
実際にはその使用の範囲で計数すればわかることになるが、ふつうう、表現語彙、使用語彙となったときにそれは発表できる語彙とし、その使い手の記憶にあるものを取り出すようなことを指し示すので、辞書を見ないで取り出した使用語彙と言うようなことになる。
そうなれな日本語の語彙と言うことだけによどまらず、その人が持ちうる語彙量となって、どうすればその語彙を計測の対象とすることができるか、興味ある課題である。