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ポツダム受諾は無条件降伏

2017-08-14 | 日本・日本人

8月14日午後11時、ポツダム宣言受諾を連合国に通達した。
"We hereby proclaim the unconditional surrender to the Allied Powers of the Japanese Imperial General Headquarters and of all Japanese armed forces and all armed forces under Japanese control wherever situated."

昭和20(1945)年7月26日に、実質的にアメリカが作り、そしてアメリカだけが署名したポツダム宣言が発表
8月6日に広島に、8月9日に長崎にそれぞれ原爆が投下
8月10日に「天皇の国法上の地位を変更しないこと」を条件にポツダム宣言を受諾する回答を発した。

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1941-50/1945_potsudamu_judaku.html
>「ポツダム宣言」は日本国軍隊の無条件降伏であり日本国の無条件降伏ではない。ポツダム宣言が要求しているのは、「日本国政府が日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、日本政府がそれを保障すること」である。日本はポツダム宣言の諸条件のもとに降伏したのであって、日本の「主権」まで占領軍に差し出したわけではない。

>降伏文書にもバーンズが8月12日に回答したのと同じ「国家統治の権限は、連合国軍最高司令官に"subject to"があり、日本が「無条件降伏」したかのような誤った考えを日本国民に信じ込ませた。





薮入りとお盆
2006年08月14日07:52

静かに過ごす、旧暦のお盆
旧暦7月15日は、新暦8月8日だった
新暦8月13日は、したがって、旧暦7月20日となる
夏休みの連休にあわせたお盆は、旧暦で行うところが多い

新暦で行うのは薮入りとの関係か、一斉休暇の休みとも
農耕民族の習慣と仏教が混じり合った日本のお盆
年に2回、8月16日と1月16日だけは、里帰りが許される
嫁いだり働きに出て家を離れた人々が故郷に戻ってきた

先祖の霊を慰める
迎え火、送り火で、祖先が行き来する道筋を照らす、火をたくのはどうしてか、ここにも民間信仰の由来がある
お盆の間は供物や盆踊りなどで祖先の霊を慰めるのは、仏教が入ってきて儀式化したか
また、秋の豊穣をお願いする気持ちが込められる


盆は、非常な苦しみ、という意味の梵語、盂蘭盆会、うらぼんえ、の集いから、盆の語が出たようだ
サンスクリット語のウランバナの音写語、古くは烏藍婆拏、烏藍婆那とも音写
ウランバナは、ウド、ランブ(ud-lamb)の義、これが倒懸、さかさにかかる、の意である
と、経典に出典を解説することが多くなったのは、盆の字義が不明だったからだろう

盂蘭盆会、うらぼんえ、ullambana、उल्लम्बन、とは、安居、あんご、の最後の日、7月15日を盂蘭盆、ullambana、とよんで、父母や祖霊を供養し、倒懸、とうけん、の苦を救うという行事である
盂蘭盆経というお経 、西晋、竺法護訳、また、報恩奉盆経というお経、東晋、失訳、などに説かれる、目連尊者の餓鬼道に堕ちた亡母への供養の伝説による
次のような話である、と、ウイキペディアは載せる

>安居の最中、神通第一の目連尊者が亡くなった母親の姿を探すと、餓鬼道に堕ちているのを見つけた。喉を枯らし飢えていたので、水や食べ物を差し出したが、ことごとく口に入る直前に炎となって、母親の口には入らなかった。
哀れに思って、釈尊に実情を話して方法を問うと、「安居の最後の日にすべての比丘に食べ物を施せば、母親にもその施しの一端が口に入るだろう」と答えた。その通りに実行して、比丘のすべてに布施を行い、比丘たちは飲んだり食べたり踊ったり大喜びをした。すると、その喜びが餓鬼道に堕ちている者たちにも伝わり、母親の口にも入った。

本来的には安居の終った日に人々が衆僧に飲食などの供養をした行事
このお経は中国成立とも言われる疑経のようだから、ややこしい
つまり、

>梁の武帝と同時代の宗懍が撰した『荊楚歳時記』には、7月15日の条に、僧侶および俗人たちが「盆」を営んで法要を行なうことを記し、『盂蘭盆経』の経文を引用していることから、すでに梁の時代には、疑経の『盂蘭盆経』が既に成立し、仏寺内では盂蘭盆会が行なわれていたことが確かめられるのである。

と、なって、中元の節があるからである

>この行事が一般に広がったのは、仏教者以外の人々が7月15日 (旧暦)を中元といって、先祖に供物を供え、灯籠に点火して祖先を祭る風習によってであろう。この両者が一つとなって、盂蘭盆の行事がいよいよ盛んになっていったと思われる。

いわゆるお中元だが、上元は1月、下元は10月、このうち上元、つまり元宵節は1月15日、小正月として祝ってきた
道教の風習で中国の民衆には根強い

>旧暦7月15日。半年間無事に暮らせたことを祝い、祖先の霊を供養する日。元々道教では、中元は人間贖罪の日として、一日中火を焚いて神を祝う風習があった。

そして、日本に伝わったと言うが・・・

>これが日本に伝わると盂蘭盆の行事と習合し、祖先の霊を供養し、両親に食べ物を送るようになった。この習慣が、目上の人、お世話になった人等に贈り物をする「お中元」に変化した。

このあたりのできごとを日本に取り入れた、とするのが、妥当だろう

梁の武帝の大同4年、538年に帝自ら同泰寺で盂蘭盆斎を設けたことが伝えられているが、これは中国の時代のこと
日本では、推古天皇14年、606年4月に、毎年4月8日と7月15日に斎を設けるとあり、また斎明天皇の3年、657年には、須弥山の像を飛鳥寺の西につくって盂蘭盆会を設けたと記され、その5年7月15日には京内諸寺で、盂蘭盆経 を講じ七世の父母を報謝させたと記録されている、そうだ

この講経によって、祖先供養のハナシとして広まったか、などと想像するも、一般大衆への広まりはずっとずっと時代を経て、説経が盛んになった頃のこと、江戸時代の奉公人の休みともあいまって、定着するのは、それ以後のことだろう

そもそも薮入りなどとするのは里下がりの意味合いだから、貴族意識のもとでの、一般大衆の風習だ

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