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批評空間に時評

2013-07-18 | 日本語教育私史
批評空間に時評

日本語教育批評というメルマガがある。購読し始めて8号めになる。
週間「日本語教育」批評として発行し始めたのはバックナンバーで2012年8月15日、そして50号を最新号としている。
読者数も260となった。
おめでとう!

その発行の趣意に、日本語教育の世界には自分たちの営みを批評するメディアがない、これが、私たちが本メルマガを創刊するに至った問題意識です、とある。

どうも主宰者がかたらって立ち上げたのは実践の研究にあるようだ。
そのフォーラムに始まって、悪しきセクショナリズムを克服する運動としての実践研究などと評している。
この言葉には、実践研究は、実践者と研究者を峻別し、お互いの役割を固定させようとする悪しき…、といった評言がついている。

批評空間があって二人の記述が対照的である。

そこにある記述で、、それは、と言うのは、青年協力隊の派遣日本語教師のことであるが、相手の土俵に上がって慣れない言語を使いながら、居場所を手に入れようと、自ら切り拓こうとするバイタリティにあるかもしれない、あるいは、その国の学習者の生活には直接結びつかない日本語を教えることの意味を問う自己批判的精神に宿る繊細な眼差しであるかもしれない、と述べている。

これはさらに、だが一方で、グローバル人材とは何か、協力隊経験者の強みとは何か、といった議論自体が、オープンに行われていないのも、また事実ではないだろうか、と展開をしている。

また、アンドロイドと日本語教育というおどろおどろしいのもある。アンドロイドに人間を見ようとし、人間らしい動きを与えようとするところに、日本語教育がどうかかわるかを考えようとしている。

批評空間として、交互にでるFとSはまるでSF空間である。第5号までで、フォーラム、国際集会、グローバル人材、アンドロイド、協力隊、そして研究と教育の、教育といったところだ。

この批評は難しい。
>言語教育/学習を「人生」というファクターを組み込んで構想することにより、言語教育/学習を脱時間化された営みとしてではなく、人生という物語の構成する重要な要素としてすなわちアイデンティティ形成の問題として捉えることが可能になる。

またこれは現実にあって教師を悩ませる表現である。
>しかし、日本語教師の世界では、授業前の準備や授業後の作業に時間を費やすことが前提となっているふしがあり、私もいつの間にかそれが当たり前だと感じてしまっている。そして、無償の時間外労働にすっかり慣れてしまっている自分にはたと気づくのである。

このいずれも実力ある、能力ある人たちの切実な叫びだ。ここには日本語教師の職業についての言及が見え、後記にあるようにメインテーマとして、このメルマガの連載を作り出すようだ。




>自分たちの営みへの言及を行わなければ,自分たちが行っている様々な教育実践や研究活動を相対化することはできません。
また,相対化してこそ,より広い視野に立った日本語教育に関する議論が可能になります。
私たちは,本メルマガ誌上で日本語教育に関わる諸事象,具体的には,日本語教育に関わる書籍,論文,報告,エッセイ,発表,学会,研究会,研修会等を批評します。
また,批評活動をとおし,日本語教育に関する議論の場の創生を目指します。1号

>「実践=研究」というパラダイムに基づく実践研究は、実践者と研究者を峻別し、お互いの役割を固定させようとする悪しきセクショナリズムを克服する運動としての実践研究  2号


>相手の土俵に上がって慣れない言語を使いながら、居場所を手に入れようと、自ら切り拓こうとするバイタリティにあるかもしれない、あるいは。その国の学習者の生活には直接結びつかない日本語を教えることの意味を問う自己批判的精神に宿る繊細な眼差しであるかもしれない。  3号


>だが一方で、「グローバル人材とは何か」「協力隊経験者の強みとは何か」といった議論自体が、オープンに行われていないのも、また事実ではないだろうか。  4号


> 言語の教育であれ、学習であれ、あるいは、第一言語であれ、第二言語であれ、本来、その人の人生との関わりを欠いた言語実践は、あり得ない。しかるに、従来の言語教育実践、あるいは言語教育/学習を対象とする記述において、「人生」というファクターはあまりに軽視されすぎていたのではないか。    5号



そこに述べられたテーマは、
日本語教師のボランティアということ、
教育の質をいかに高めるか。

また、研究には質的なものがあって、それをどうしたら、量的研究とのかかわりを捉えるか。
研究デザインについても言及がある。

あの子と呼ばれる学習者への呼称をどう意識するか、などである。

批評がいよいよ、どんなものか、ひそかにもくろむ日本語教育に批評の場を持つとはどうすることか。
それがモザイクになってそのテーマを求めている。

教育であるので、教育入門のように題目を並べてみるとそれに深く切り込むことができるが、その入門として柱となるのはやはり教育論である。
そのために学習者、教師、教材という分析ができ、そこには教科書と教室活動と言うとらえ方もある。
語学のスキル教育でもあるので教育そのものを教授法に求めることもあるだろう。

批評に空間は広がりを見せるか、それには雲にのぞく日本語教育の日輪のような対象をすえて実態を捉えなければなるまいか。

メルマガ週刊日本語教育第6号から第10号まで
2012/10/10 23:52
2012/10/03 23:56
2012/09/26 23:59
2012/09/21 14:44
2012/09/19 23:59


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