現代日本語百科   けふも  お元気ですか

gooブログはじめました!日本語百科です。
現代日本語百科 ⓒ2013gooksky

日本語教育、うつろいゆくも

2015-03-22 | 日本語教育私史
中国北京の交換教員は海外での日本語教育としての経験で、それ以後、中国での日本語教育をウオッチングするようなことになった。日本に1985年に帰国して変わらず勤務校での国語国文学と研修生の日本語にかかわっていたが、それまで大阪に通い続けた1978年から1983年までの日本語教師はそこで中断して、留学生への本務のひとつとなって継続することになる。日本語教育研修の中国からの派遣者を受け容れていた。その当時は北京語言学院から継続して、あるいは、社会科学院、南開大学、上海外国語学院、大連外国語学院と、かわらずにいて、年ごとの人数は半分になって、研究奨学としての待遇であった。すでに語言研究の受け入れが、法律、経済の専門分野での受け入れとかわって、留学生事業は軌道に乗っていた。中国の研究は校是であったから、辞典編纂に次ぐことは、新しい校地での新学部構想へと発展したのである。 . . . 本文を読む

日本語教育、思い出すことども

2015-03-21 | 日本語教育私史
1984年の国慶節のときに、中国北京にいた。35周年記念の盛大な式典で、人民広場に面した左翼の立ち見席にいた。日本語専家の招待であった。パレードがあって、引き続く、晩会にいて花火を見上げた思い出がある。日本語教師として北京語言学院に赴任した。交換教員で9月から1985年の2月まで滞在した。友誼賓館のホテル住まいであった。10月1日の祝日には招待があると聞いて物見遊山の気分であったのを覚えている。専家の待遇は中国での賓客として、招待と言われれば、その時間に集まって差し回しバスでお任せである。故宮の一角がバスの駐車場になって、どこをどう通ったか、道ならぬ壁と囲まれた中を広いことと意識し東の端にあるひな壇に上がった。あとで思えば天安門城壁とsこしのところ、人民大会堂を遠く眺、出てくるパレードを目の当たりにしていたのである。 . . . 本文を読む

空間批評―時評8

2013-08-31 | 日本語教育私史
これまでの空間批評の論点は編集者によって4つにまとめられた。それを時系列にしたがって読み取る。いまの批評は実践研究にある。その一方では、ライフストーリーインタビューが取り上げられてきた。このメルマガが目指す議論の巻起こしに自らが語る方法が視点として位置付けられる。また実践のプロセスを見せる場になればよいと提案する。さてその4つとはなにか。日本語教育に内在するパターナリズム、ことばの力、職業としての日本語教師、日本語教育における実践研究である。 . . . 本文を読む

空間批評―時評7 日本語教育

2013-08-23 | 日本語教育私史
日本語教師は職業か、このテーマ連載が空間批評Fで読者を巻き込んで論じられている。エッセイとしている向きがあり、このメルマガの言うエッセイはその姿勢があるようだから、主張とするところはどこにあるか。日本語教師を職業とする人がいるわけであるから、批評の筆者たちも自称、日本語教師であるはずだから、それを職業とするかどうかはその方々の認識にかかわる。それをとやかくはたから言う筋合いはまずない、と思うので、その場にいる人が自らの境遇を顧みずに職業云々をするのは職業とする人たちへの、その物言いによっては冒涜になる可能性がある。 日本語教師が生き方であって、まさか、死に方ではないだろうというまぜっかえしをしてもよいが、すくなくも逆説的な言を弄したとして、日本語教師は職業ではないと明言するひとがいるなれば、それは誤解を伴わないように、名言でない迷いごとであるにすぎないので、ことば遊びを控えなければならない。日本語教育が専門であると言い、日本語教育の実践を語って収入を得ているなら、それはなんの職業だろう。その言には気を付けなければならないことに詭弁がわなとされるので、そういう可能性があると考えた方がよいので、深く立ち入ることをしないのが賢明だろう。 . . . 本文を読む

空間批評―時評6

2013-08-16 | 日本語教育私史
ぶっちゃけ、日本語教師は食えているのか、って。食っているから、メルマガを発行し続けているのだろう。メルマガ発行の疑問は批評に批判が行われないからである。ここまで発行し続けてきて、その目的を見失っているのは自分を見失いかけているからである。批評が何であるかを見据えなければ、これは立ち消えになる。 批評は定めるだけの議論である。辞書によれば、日本国語大辞典、批評とは、事物の善悪・是非・美醜などを評価し論じることとあり、次いで、長所短所などを指摘して価値を決めることのようである。批判、とも書き添える。百科大全書によって批評を辿ってみると、批評の基本と位置は、次のようである。 . . . 本文を読む

批評空間ー時評5

2013-08-04 | 日本語教育私史
週刊日本語教育批評31号―37号 日本語教育の営為を日本語教育の歴史に投影する論評が続く。いずれも批評のテーマをおこすことにはなってきた。追求し続けるアイデンティティーのありようは国語教育にあった。言い換えれば植民地教育と日本語ということであろう。国家に、所属意識をもつことまた帰属すること、固有名を名乗り、日本語を言葉として語り始めること、そこにあるのは捨てられること、拾いに出かけること、そこにはダブルバインドがあり、イデオロギーの時代がかぶさる。日本統治の国家が国語教育をどうおこなったか。 併合国家が言語教育をどうとらえたか。 . . . 本文を読む

批評空間―時評4

2013-07-29 | 日本語教育私史
週刊日本語教育批評22号―30号 日本語を教える、ということの、内実は何か。また自律学習の違和感について、あるいは実践研究の教師について議論をしている。批評とはその方法があり、文芸時評にはそれなりのスタイルがあったりして、そのうえで外在批評だとか内在批評だとかあるらしい、このSF空間には何が当てはまるか。日本語を教えるというのは、日本語を話せるように教えるとか、日本語を書くことができるように教えるとか、そういうのでいいはずだけれども、どうなんだろう。いま、発音を教えているとも、文法を教えているとも、とにかく方法はどうであれ、使うことができる日本語を教えているはずであるから、教える場がある、学習者とともにある、それが日本語教育であるし、教育はそういうものだろうと思う。自律学習は議論の共通認識をどこで図るか、次を見ておこう。http://leo.aichi-u.ac.jp/~goken/bulletin/pdfs/No12/04-Umeda.pdf  学習者の自律性を重視した 日本語教育コースにおける教師の役割 。 . . . 本文を読む

批評空間ー時評3

2013-07-25 | 日本語教育私史
週刊日本語教育批評第21号まで、2012年8月に発行された、メルマガである。SF空間は大きく分けて、批評とは何か、という問いかけと、日本語教育の教師についての研究と教育にある。日常活動にあるメルマガの主宰者の目覚ましさは注目を浴びる。いわば恵まれた中での批評はそのテーマ起こしにある。そして顔の見える批評のあり方を、批評という活動で議論する。ある種、文体にもよるところがある。批評家の文のスタイルであるが、それを文芸に求めているわけでもないので、批評内容の分析に議論は落着するだろう。批評とは何かを問いつづけることはメルマガの編集にかかってくることである。研究デザインと研究活動デザインの評はよくわからない。実践者の経験が見えないからである。研究計画とどう違うか、この語の内実はプランのスケジュール化となるので、さきの研究デザインはその名のごとく実践モデルが意匠となる。研究活動そのものがデザインであるということは、形の良さだけを求めることになりかねない。 . . . 本文を読む

批評空間ー時評2

2013-07-21 | 日本語教育私史
そこに述べられたテーマは、日本語教師のボランティアということ、教育の質をいかに高めるか。また、研究には質的なものがあって、それをどうしたら、量的研究とのかかわりを捉えるか。研究デザインについても言及がある。あの子と呼ばれる学習者への呼称をどう意識するか、などである。批評がいよいよ、どんなものか、ひそかにもくろむ日本語教育に批評の場を持つとはどうすることか。それがモザイクになってそのテーマを求めている。教育であるので、教育入門のように題目を並べてみるとそれに深く切り込むことができるが、その入門として柱となるのはやはり教育論である。そのために学習者、教師、教材という分析ができ、そこには教科書と教室活動と言うとらえ方もある。語学のスキル教育でもあるので教育そのものを教授法に求めることもあるだろう。批評に空間は広がりを見せるか、それには雲にのぞく日本語教育の日輪のような対象をすえて実態を捉えなければなるまいか。 . . . 本文を読む