玉不琢,不成器
人不学,不知道
礼記 学記
四書五経のひとつになる。
礼記 らいきLi-ji
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
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中国,儒教の経書で五経の一つ。おもに礼の倫理的意義について解説した古説を集めたもの。前漢初期には『礼の記』 131編のほか,さまざまな礼に関する古記録が現れたが,前1世紀まず戴徳 (たいとく) がこれらを整理して『大戴礼 (だたいれい) 』 85編を編集し,次いで戴聖が『礼記』 (小戴礼ともいう) 49編を編集した。後者が唐以後正統な経書となった。古代の習俗,制度,宗教などを知る興味ある文献であるだけでなく,そのなかに宋代に高く評価されるようになった『大学』『中庸』両編も収めている。
ウイキペディアより
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『礼記』の成立については、『隋書』芸文志、『経典釈文』序録、鄭玄『六芸論』(佚文)などが各々論じているが、相互に矛盾があり、正確なことは分っていない。その中でも有力な学説は二つ存在する。
第1の説は『隋書』経籍志を代表するものである。それによるならば、前漢時期の宮廷図書目録である『漢書』芸文志には、「『記』141篇」とある。この中からまず戴徳が85篇を選び取り、『礼記』を作った。次に戴徳の兄の子であった戴聖は、戴徳の『礼記』からさらに46篇を選び取り、別に『礼記』を作った。戴徳と戴聖を区別するため、戴徳を大戴、戴聖を小戴と呼ぶ。そのため戴徳の『礼記』を『大戴礼記』(ダタイライキと発音することになっている)、戴聖の『礼記』を『小戴礼記』と呼ぶようになった。後、後漢末の大学者馬融は『小戴礼記』に3篇を付け加え、現在の全49篇になったというものである。この学説によると、『記』から『大戴礼記』、『大戴礼記』から『小戴礼記』が生れたことになる。
第2の学説は、鄭玄の『六芸論』を代表するものである。これは『記』から戴徳と戴聖が各々ばらばらに選び取り、各々『大戴礼記』と『小戴礼記』を作ったというものである。これによるならば、『大戴礼記』と『小戴礼記』は、本来、ばらばらに成立したことになる。
これ以外にも、『大戴礼記』と『小戴礼記』は、『記』から選び取ったのではなく、両者の師であった后蒼『曲台記』を継承したもので、本来は49篇であったとする学説も存在する。(黄懐信など撰『大戴礼記彙校集注』。ただしこの学説の成立を認めるには、いくつかの専門的文献批判を必要とする。)いずれにせよ、『大戴礼記』と『小戴礼記』の成立には確実な学説はない。
人不学,不知道
玉不琢,不成器
玉 琢かざれば 器を成さず
人 学ばざれば 道を知らず
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礼記
父の讎(あだ)は与(とも)に共(とも)に天を戴(いただ)かず、兄弟(けいてい)の讎は兵に反(かえ)らず、交遊の讎は国を同じうせず。
口語訳
父の仇とともに同じ天をいただくことはできない、したがって同じ世に生かしてはおけず、必ず殺すべきである。兄弟のかたきは家に帰ってから武器をとってくるなどのひまはない、いつでも武器をたずさえていて直ちに殺すべきである。友人のかたきは国を同じくして住むことはできない、やはり殺すべきである。
----不倶戴天 ふぐたいてん
敖(おご)りは長ずべからず、欲は従(ほしいまま)にすべからず。
口語訳
自分の能力や地位を鼻にかけて人を見下すのはよくない。欲望の追求もすべきではない。
玉琢(たまみが)かざれば器(うつわ)を成さず、人学ばざれば道を知らず。
口語訳
玉は磨いてこそ、価値あるものになる。人間も学んでこそ、人間のあるべき道を知ることことができる。
学びて然(しか)る後に足らざるを知り、教えて然る後に困(くる)しむを知る
口語訳
学ぶことによって自分に欠けているところが分かり、教えることによって自分の未熟なところが分かる。