あめつち たゐに
手習い歌に、いろは歌があり、日本語の音韻で発音を意識して同じ仮名を二度使わずに構成しているが、ほかにも、あめつち、たゐにの歌がある。いろは歌が47字であるのに対して、あめつちは48字となっていて、1字の増減がある。たゐにの歌は47字であり、あめつち 48字 たゐに 47字 いろは 47字 となることから、日本語の音韻はこのあめつちで48音として意識されていたと考えることができ、定かではないが、あめつちに、え の発音が、すゑ えのえを と見えることから、ワ行のほか、ア行とヤ行とに区別があったとする。平安時代の初期のころと、中ほど、10世紀の後半で音韻に変化があったとなると、47字に定着して、いろは歌で意識する音韻になったことになる。次は、辞書の解説と、日本大百科全書ニッポニカ、フリー百科辞典ウイキペディアから摘記した。
デジタル大辞泉
たいに 〔たゐに〕 【▽大為×爾】
仮名文字を習得するための、同じ仮名を二度用いないで47字全部を使った五・七調の歌。「あめつちの詞(ことば)」に次いで作られ、「いろは歌」に先行するものと考えられている。源為憲(みなもとのためのり)の「口遊(くちずさみ)」にみえる。「たゐにいて(田居に出で)なつむわれをそ(菜摘む我をぞ)きみめすと(君召すと)あさりおひゆく(あさり追ひ行く)やましろの(山城の)うちゑへるこら(打ち酔へる子等)もはほせよ(藻は干せよ)えふねかけぬ(え舟繋けぬ)」
日本国語大辞典
あめつちの歌
天地の詞の一字ずつを、第一字にまたは第一字と最後の字とに用いて作った和歌。
順集〔983頃〕「あめつちの歌四十八首、もと藤原有忠あざな藤あむよめる返しなり。もとのうたはかみのかぎりにそのもじをすゑたり。これはしもにもすゑ、時をもわかちてよめる也。春。あらさじとうち返すらし小山田の苗代水にぬれて作るあ」
あめつち の 詞(ことば)
「あめつち」以下の四八字から成り、おもに手習い用教材として用いられたと思われ、四七字の「いろは歌」「大為爾(たいに)歌」に先立って平安初期に作られたとみられる。全文を伝えるものは「源順集」だけで、それにより集めると、「あめ(天)、つち(地)、ほし(星)、そら(空)、やま(山)、かは(河)、みね(峰)、たに(谷)、くも(雲)、きり(霧)、むろ(室)、こけ(苔)、ひと(人)、いぬ(犬)、うへ(上)、すゑ(末)、ゆわ(硫黄)、さる(猿)、おふせよ(生ふせよ)、えのえを(榎の枝を)、なれゐて(馴れ居て)」の四八字となる。かっこ内は普通の解だが、最後の十一字を「良箆(江野)、愛男、汝、偃(率て)」と解し、全て二音節語からなるとする説もある。「え」以外は同じかなを二度繰り返すことがないので、製作当時の清音節を網羅したものと思われ、「え」を重出するのは、ア行のエ(e )とヤ行のエ(ye )との発音上の区別のあった時代(平安初期)を反映して作られたと考えられている。
日本大百科全書(ニッポニカ)
あめつち
すべての仮名を、同じ仮名を繰り返さずに読み込んだ48字の誦文(しょうぶん)。全文は次のとおりである。
あめ(天) つち(地) ほし(星) そら(空) やま(山) かは(川) みね(峰) たに(谷) くも(雲) きり(霧) むろ(室) こけ(苔) ひと(人) いぬ(犬) うへ(上) すゑ(末) ゆわ(硫黄) さる(猿) おふ(生)せよ え(榎)の え(枝)を な(馴)れ ゐ(居)て
「おふせよ」以降は意味がとりにくく、別の漢字をあてる説もある。48字あるのは、ア行の「エ」とヤ行の「エ」を区別しているためであり、その点から、その二つが音韻として区別されていた時代につくられたものであることがわかる。したがって47字の「いろは歌」より古いものであり、おそらく平安時代初期に作成されたものと考えられる。作者、当初の作成目的などは不明であるが、なんらかの形で五十音図を改編してつくられたものであろう。また「いろは歌」が一般化するまでは「難波津(なにわづ)の歌」と並んで手習い用に使われていた。
[近藤泰弘]
次は、ウイキペディアより。
あめつちの詞とは、仮名48字からなる誦文のこと。国語学・言語学における研究では、平安時代初期に作られたとされている。
あめつちの詞が出てくるもっとも古い例は、 源順911年 - 983年 の私家集、順集である。
あめつちの詞を復元すると次のようになる。
あめ つち ほし そら やま かは みね たに くも きり むろ こけ ひと いぬ うへ すゑ ゆわ さる おふせよ えのえを なれゐて
天・地・星・空・山・川・峰・谷・雲・霧・室・苔・人・犬・上・末・硫黄・猿 おふせよ えのえを なれゐて
>「えのえを」で「え」が二つあるのは、ア行の「え」とヤ行の「え」の区別を示すものと考えられることから、この区別が残っていた平安時代初期(900年前後)までに成立したと推測されている。なお紀貫之は『土佐日記』でこのふたつの「え」について区別して用いているが、のちの音韻の変化により源順はこの区別ができなかったらしく、「あめつちの歌」でふたつの「え」を置いた歌は2首とも副詞の「え」、すなわちア行の「え」で始まっている。
天禄元年、970年の序文を持つ、口遊に収録される大為爾の歌には、以下の文がその注釈として記されている。
今案世俗誦阿女都千保之曽里女之訛説也 此誦為勝
今案ずるに、世俗、阿女都千保之曽〈あめつちほしそ〉と誦す。里女の訛説なり〈訛りのひどい田舎女の口癖のようだの意〉。此の誦〈大為爾の歌のこと〉を勝れりとす
大為爾の歌とは、47字の仮名を用いて作られた五七調の誦文。作者については不明
天禄元年、970年に源為憲が著した、口遊くちずさみ という書物の中に、以下の文が、謂之借名文字 これを借名 かな文字と謂ふ という但し書きを最後に付け加えて記されている。
大為爾伊天奈従武和礼遠曽支美女須土安佐利 比由久也末之呂乃宇知恵倍留古良毛波保世与衣不弥加計奴
これについて江戸時代の学者伴信友はその著、比古婆衣、巻之四で、次のように解読し紹介している。
たゐにいて なつむわれをそ きみめすと あさり(お)ひゆく やましろの うちゑへるこら もはほせよ えふねかけぬ
田居に出で 菜摘む我をぞ 君召すと 求食り追ひゆく 山城の うち酔へる子ら 藻葉 干せよ え舟繋けぬ
>小松英雄は最終句「えふねかけぬ」が6字しか無く末尾が連体形になっていることに注目し、本来はヤ行の「え」を加えて「え船繋けぬ江」だったのではないかとし、また第四句の「お」に当たる文字が欠落しているのは単なる誤脱ではなく、のちの音韻変化によりア行「お」/o/の音がワ行「を」/wo/の音に変化合流していた時、この誦文を唱えて使用する際に「を」/wo/の音となっていた「お」の仮名を、わざと欠落させていた可能性があることを指摘している。
以上、ウイキペディアより。
手習い歌に、いろは歌があり、日本語の音韻で発音を意識して同じ仮名を二度使わずに構成しているが、ほかにも、あめつち、たゐにの歌がある。いろは歌が47字であるのに対して、あめつちは48字となっていて、1字の増減がある。たゐにの歌は47字であり、あめつち 48字 たゐに 47字 いろは 47字 となることから、日本語の音韻はこのあめつちで48音として意識されていたと考えることができ、定かではないが、あめつちに、え の発音が、すゑ えのえを と見えることから、ワ行のほか、ア行とヤ行とに区別があったとする。平安時代の初期のころと、中ほど、10世紀の後半で音韻に変化があったとなると、47字に定着して、いろは歌で意識する音韻になったことになる。次は、辞書の解説と、日本大百科全書ニッポニカ、フリー百科辞典ウイキペディアから摘記した。
デジタル大辞泉
たいに 〔たゐに〕 【▽大為×爾】
仮名文字を習得するための、同じ仮名を二度用いないで47字全部を使った五・七調の歌。「あめつちの詞(ことば)」に次いで作られ、「いろは歌」に先行するものと考えられている。源為憲(みなもとのためのり)の「口遊(くちずさみ)」にみえる。「たゐにいて(田居に出で)なつむわれをそ(菜摘む我をぞ)きみめすと(君召すと)あさりおひゆく(あさり追ひ行く)やましろの(山城の)うちゑへるこら(打ち酔へる子等)もはほせよ(藻は干せよ)えふねかけぬ(え舟繋けぬ)」
日本国語大辞典
あめつちの歌
天地の詞の一字ずつを、第一字にまたは第一字と最後の字とに用いて作った和歌。
順集〔983頃〕「あめつちの歌四十八首、もと藤原有忠あざな藤あむよめる返しなり。もとのうたはかみのかぎりにそのもじをすゑたり。これはしもにもすゑ、時をもわかちてよめる也。春。あらさじとうち返すらし小山田の苗代水にぬれて作るあ」
あめつち の 詞(ことば)
「あめつち」以下の四八字から成り、おもに手習い用教材として用いられたと思われ、四七字の「いろは歌」「大為爾(たいに)歌」に先立って平安初期に作られたとみられる。全文を伝えるものは「源順集」だけで、それにより集めると、「あめ(天)、つち(地)、ほし(星)、そら(空)、やま(山)、かは(河)、みね(峰)、たに(谷)、くも(雲)、きり(霧)、むろ(室)、こけ(苔)、ひと(人)、いぬ(犬)、うへ(上)、すゑ(末)、ゆわ(硫黄)、さる(猿)、おふせよ(生ふせよ)、えのえを(榎の枝を)、なれゐて(馴れ居て)」の四八字となる。かっこ内は普通の解だが、最後の十一字を「良箆(江野)、愛男、汝、偃(率て)」と解し、全て二音節語からなるとする説もある。「え」以外は同じかなを二度繰り返すことがないので、製作当時の清音節を網羅したものと思われ、「え」を重出するのは、ア行のエ(e )とヤ行のエ(ye )との発音上の区別のあった時代(平安初期)を反映して作られたと考えられている。
日本大百科全書(ニッポニカ)
あめつち
すべての仮名を、同じ仮名を繰り返さずに読み込んだ48字の誦文(しょうぶん)。全文は次のとおりである。
あめ(天) つち(地) ほし(星) そら(空) やま(山) かは(川) みね(峰) たに(谷) くも(雲) きり(霧) むろ(室) こけ(苔) ひと(人) いぬ(犬) うへ(上) すゑ(末) ゆわ(硫黄) さる(猿) おふ(生)せよ え(榎)の え(枝)を な(馴)れ ゐ(居)て
「おふせよ」以降は意味がとりにくく、別の漢字をあてる説もある。48字あるのは、ア行の「エ」とヤ行の「エ」を区別しているためであり、その点から、その二つが音韻として区別されていた時代につくられたものであることがわかる。したがって47字の「いろは歌」より古いものであり、おそらく平安時代初期に作成されたものと考えられる。作者、当初の作成目的などは不明であるが、なんらかの形で五十音図を改編してつくられたものであろう。また「いろは歌」が一般化するまでは「難波津(なにわづ)の歌」と並んで手習い用に使われていた。
[近藤泰弘]
次は、ウイキペディアより。
あめつちの詞とは、仮名48字からなる誦文のこと。国語学・言語学における研究では、平安時代初期に作られたとされている。
あめつちの詞が出てくるもっとも古い例は、 源順911年 - 983年 の私家集、順集である。
あめつちの詞を復元すると次のようになる。
あめ つち ほし そら やま かは みね たに くも きり むろ こけ ひと いぬ うへ すゑ ゆわ さる おふせよ えのえを なれゐて
天・地・星・空・山・川・峰・谷・雲・霧・室・苔・人・犬・上・末・硫黄・猿 おふせよ えのえを なれゐて
>「えのえを」で「え」が二つあるのは、ア行の「え」とヤ行の「え」の区別を示すものと考えられることから、この区別が残っていた平安時代初期(900年前後)までに成立したと推測されている。なお紀貫之は『土佐日記』でこのふたつの「え」について区別して用いているが、のちの音韻の変化により源順はこの区別ができなかったらしく、「あめつちの歌」でふたつの「え」を置いた歌は2首とも副詞の「え」、すなわちア行の「え」で始まっている。
天禄元年、970年の序文を持つ、口遊に収録される大為爾の歌には、以下の文がその注釈として記されている。
今案世俗誦阿女都千保之曽里女之訛説也 此誦為勝
今案ずるに、世俗、阿女都千保之曽〈あめつちほしそ〉と誦す。里女の訛説なり〈訛りのひどい田舎女の口癖のようだの意〉。此の誦〈大為爾の歌のこと〉を勝れりとす
大為爾の歌とは、47字の仮名を用いて作られた五七調の誦文。作者については不明
天禄元年、970年に源為憲が著した、口遊くちずさみ という書物の中に、以下の文が、謂之借名文字 これを借名 かな文字と謂ふ という但し書きを最後に付け加えて記されている。
大為爾伊天奈従武和礼遠曽支美女須土安佐利 比由久也末之呂乃宇知恵倍留古良毛波保世与衣不弥加計奴
これについて江戸時代の学者伴信友はその著、比古婆衣、巻之四で、次のように解読し紹介している。
たゐにいて なつむわれをそ きみめすと あさり(お)ひゆく やましろの うちゑへるこら もはほせよ えふねかけぬ
田居に出で 菜摘む我をぞ 君召すと 求食り追ひゆく 山城の うち酔へる子ら 藻葉 干せよ え舟繋けぬ
>小松英雄は最終句「えふねかけぬ」が6字しか無く末尾が連体形になっていることに注目し、本来はヤ行の「え」を加えて「え船繋けぬ江」だったのではないかとし、また第四句の「お」に当たる文字が欠落しているのは単なる誤脱ではなく、のちの音韻変化によりア行「お」/o/の音がワ行「を」/wo/の音に変化合流していた時、この誦文を唱えて使用する際に「を」/wo/の音となっていた「お」の仮名を、わざと欠落させていた可能性があることを指摘している。
以上、ウイキペディアより。