蘭学受容
江戸時代の洋学は次のように、南蛮学と蘭学を指す。
世界大百科事典 第2版の解説 ようがく【洋学】
>江戸時代に移植・研究された西洋学術の総称。西洋学術の移植・研究がはじまるのはキリシタン時代で,当時それは〈南蛮学〉または〈蛮学〉とよばれた。ポルトガル,スペインなどの南蛮国から渡来した学術という意味である。鎖国後,代わってオランダ系学術が,長崎のオランダ通詞を中心に学ばれるが,それもやはり,〈蛮学〉とよばれた。オランダ系西洋学術が〈蘭学〉という名でよばれるようになるのは,江戸でオランダ解剖書が翻訳され,蘭書に基づく本格的な西洋学術研究が開始されて以来のことである。
端的に、江戸時代から明治初期のころまでの日本に移入されたヨーロッパの学問の総称で、ポルトガルの蛮学、オランダの蘭学、蘭、英、仏、独の西洋学問、と言うことができる。
西洋という語に東洋という語が迎えられて、洋学はそのすべてとされてもおかしくはないが、西洋の洋学があって、東洋を意識したものであろうから、洋学といえばヨーロッパとなる。
南蛮学があるが、南蛮と称される、この蛮字は、よろしくない。古代漢語で漢民族を取り巻く異民族の蔑称である、東夷、西戎、北狄、南蛮の一つ、蛮族夷狄のイメージである。
蘭学からはじまった西洋の捉え方にあるのだろう。
南蛮をどれほどに見たか。南蛮学のそもそもは南蛮博士の新村出の著作、南蛮記 1915年からのようである
1543年、種子島に漂着して鉄砲を伝えたポルトガル人について、次のようである。
>1543年9 月23 日、二名のポルトガル人を乗せた中国のジャンク船が種子島に漂着した。
村の長である西村織部丞は、その船の船長である中国人の五峯に二名のポルトガル人の身の上について尋ねる。すると五峯は「此是西南蠻種之賈胡也」という答えを返す。史上初の日本人とポルトガル人の出会いは凡そこのようなものであった。
このやりとりは、その後 1606 年に『鉄砲記』において記録され、種子島で初めて日本人がポルトガル人を「南蠻(蛮)」と認識したことを裏付ける。
http://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/research/tsukamoto/pdf/report/2011_38.pdf 「南蛮」の用語史と「南蛮美術」の研究史に関する考察
ポルトガルやスペインからの文化の流入がある。まずは、通商にあったであろう。
それは、1639年、江戸幕府の鎖国政策によって途絶えることになる。
そして、オランダが唯一の通商国となり、オランダ語は蘭学として江戸時代を通じて学習される。オランダ通詞がいて、長崎出島のオランダ商館員との会話や作文のオランダ語と、蘭学となる医学など学問に必要なオランダ語である。
1774年、解体新書 がある。
これは、ドイツ人、クルムス Johann Adam Kulmusの著した医学書、Anatomische Tabellen 解剖図譜を、オランダ人、へラルデュス・ディクラン Gerardus Dicken がオランダ語に訳した Ontleedkundige Tafelen ターヘル・アナトミアを、杉田玄白、前野良沢らの翻訳したものである。
蘭学が発展するのは、徳川吉宗が青木昆陽、野呂元丈らに学習を命じたことによる。1740年のこと。
また、17774年、長崎通詞、本木良永による、天地二球用法、1802年に同じく、志筑忠雄による、暦象新書 と、学術書が翻訳された。
1788年、蘭学階梯 が出版される。大槻玄沢による蘭学入門書、そしてオランダ語の辞典などが編纂される。
1824年、長崎の鳴滝塾で、シーボルト JonkerPhilipp Franz von Siebold のような外国人が教える塾など、蘭学塾が各地に開設されるようになる。オランダ語は長崎、江戸だけでなく広まった。
1838年、緒方洪庵は大坂瓦町に適塾を開き、オランダ語学習の拠点となる。
蘭学学習法またはオランダ語教授法が確立することになる。外国語の学習、教育のモデルとして継承された。
これは、その後の明治期の英語教育の展開を容易にした。
緒方洪庵の学問・教育に対する基本的指針
扶氏医戒之略、12か条の第一、医の世に生活するは人の為のみ、己の為にあらず、を信条とする。
適塾は学力に応じて等級に分け、系統的・組織的な蘭学の教育を行ない、各自の努力と競争で実力を養った。
授業は、素読にはじまり、会読にはいる。会頭あるいは塾頭、塾監による評価をうけて席次が入れ替わる切磋琢磨の場であった。
塾生たちはオランダの医学書を読み解き、医療で人々に尽くすためのものと努力した。
適塾には創設以来25年間で1000人が学び明治を担う多くの人材を輩出した。
慶応義塾の福沢諭吉、近代兵制の村田益次郎、日本赤十字社の佐野常民が塾生であった。
蘭学は翻訳のための学問であり、オランダ人たちは限定されていたので蘭学者たちに教師不在であった。
オランダ語の学術書の読解研究に専心し蘭学は医学を中心に時代を経て天文学、暦学、地理学、化学、兵学などを学んだ。
オランダ書の翻訳過程で威力を発揮したのが、漢語のもつ造語能力である。
たとえば、zeenuwの訳語、神経はじめは世奴と音訳、漢語の神気と経脈を合成した。重力、求心力、焦点、意識、感覚、知覚などの専門用語を漢語から合成した。蘭学時代に作られた専門用語がある。
福沢諭吉は横浜に出かけて英語の重要性に目覚めた。その英学において学習や翻訳には基本的に蘭学の翻訳法であった。明治10年、1877年頃までは蘭学と英学が混在した時代である。英語はオランダ語の方法に倣って学ばれていた、という。
蘭学の学習方法は漢文の教授法、学習法の影響を見ることができ、漢文漢語は日本人が最初に学んだ外国語で漢文訓読法があった。
漢文の学習は入門期には素読し、声を出して読むこと、次は会読で、何人かが集まりある者が漢籍の内容を論じ他の者が質問をするという質疑応答の学習であった。いまでは輪読会でありゼミ演習の議論であろう。
素読から会読へのやり方、漢学から蘭学へ、さらに英学へと踏襲された。
幕府の外国語学校開成所や明治初期の慶応義塾にまで英学における素読と会読、訳読であった。
中浜、ジョン、万次郎の編集、日本最初の英会話集、英米対話捷径 1859年に用いられていたのも漢文訓読法である。
明治20年、1887年代まで行なわれていたのは漢学・蘭学以来の伝統的な方式をふまえたものと言えよう。
江戸時代の洋学は次のように、南蛮学と蘭学を指す。
世界大百科事典 第2版の解説 ようがく【洋学】
>江戸時代に移植・研究された西洋学術の総称。西洋学術の移植・研究がはじまるのはキリシタン時代で,当時それは〈南蛮学〉または〈蛮学〉とよばれた。ポルトガル,スペインなどの南蛮国から渡来した学術という意味である。鎖国後,代わってオランダ系学術が,長崎のオランダ通詞を中心に学ばれるが,それもやはり,〈蛮学〉とよばれた。オランダ系西洋学術が〈蘭学〉という名でよばれるようになるのは,江戸でオランダ解剖書が翻訳され,蘭書に基づく本格的な西洋学術研究が開始されて以来のことである。
端的に、江戸時代から明治初期のころまでの日本に移入されたヨーロッパの学問の総称で、ポルトガルの蛮学、オランダの蘭学、蘭、英、仏、独の西洋学問、と言うことができる。
西洋という語に東洋という語が迎えられて、洋学はそのすべてとされてもおかしくはないが、西洋の洋学があって、東洋を意識したものであろうから、洋学といえばヨーロッパとなる。
南蛮学があるが、南蛮と称される、この蛮字は、よろしくない。古代漢語で漢民族を取り巻く異民族の蔑称である、東夷、西戎、北狄、南蛮の一つ、蛮族夷狄のイメージである。
蘭学からはじまった西洋の捉え方にあるのだろう。
南蛮をどれほどに見たか。南蛮学のそもそもは南蛮博士の新村出の著作、南蛮記 1915年からのようである
1543年、種子島に漂着して鉄砲を伝えたポルトガル人について、次のようである。
>1543年9 月23 日、二名のポルトガル人を乗せた中国のジャンク船が種子島に漂着した。
村の長である西村織部丞は、その船の船長である中国人の五峯に二名のポルトガル人の身の上について尋ねる。すると五峯は「此是西南蠻種之賈胡也」という答えを返す。史上初の日本人とポルトガル人の出会いは凡そこのようなものであった。
このやりとりは、その後 1606 年に『鉄砲記』において記録され、種子島で初めて日本人がポルトガル人を「南蠻(蛮)」と認識したことを裏付ける。
http://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/research/tsukamoto/pdf/report/2011_38.pdf 「南蛮」の用語史と「南蛮美術」の研究史に関する考察
ポルトガルやスペインからの文化の流入がある。まずは、通商にあったであろう。
それは、1639年、江戸幕府の鎖国政策によって途絶えることになる。
そして、オランダが唯一の通商国となり、オランダ語は蘭学として江戸時代を通じて学習される。オランダ通詞がいて、長崎出島のオランダ商館員との会話や作文のオランダ語と、蘭学となる医学など学問に必要なオランダ語である。
1774年、解体新書 がある。
これは、ドイツ人、クルムス Johann Adam Kulmusの著した医学書、Anatomische Tabellen 解剖図譜を、オランダ人、へラルデュス・ディクラン Gerardus Dicken がオランダ語に訳した Ontleedkundige Tafelen ターヘル・アナトミアを、杉田玄白、前野良沢らの翻訳したものである。
蘭学が発展するのは、徳川吉宗が青木昆陽、野呂元丈らに学習を命じたことによる。1740年のこと。
また、17774年、長崎通詞、本木良永による、天地二球用法、1802年に同じく、志筑忠雄による、暦象新書 と、学術書が翻訳された。
1788年、蘭学階梯 が出版される。大槻玄沢による蘭学入門書、そしてオランダ語の辞典などが編纂される。
1824年、長崎の鳴滝塾で、シーボルト JonkerPhilipp Franz von Siebold のような外国人が教える塾など、蘭学塾が各地に開設されるようになる。オランダ語は長崎、江戸だけでなく広まった。
1838年、緒方洪庵は大坂瓦町に適塾を開き、オランダ語学習の拠点となる。
蘭学学習法またはオランダ語教授法が確立することになる。外国語の学習、教育のモデルとして継承された。
これは、その後の明治期の英語教育の展開を容易にした。
緒方洪庵の学問・教育に対する基本的指針
扶氏医戒之略、12か条の第一、医の世に生活するは人の為のみ、己の為にあらず、を信条とする。
適塾は学力に応じて等級に分け、系統的・組織的な蘭学の教育を行ない、各自の努力と競争で実力を養った。
授業は、素読にはじまり、会読にはいる。会頭あるいは塾頭、塾監による評価をうけて席次が入れ替わる切磋琢磨の場であった。
塾生たちはオランダの医学書を読み解き、医療で人々に尽くすためのものと努力した。
適塾には創設以来25年間で1000人が学び明治を担う多くの人材を輩出した。
慶応義塾の福沢諭吉、近代兵制の村田益次郎、日本赤十字社の佐野常民が塾生であった。
蘭学は翻訳のための学問であり、オランダ人たちは限定されていたので蘭学者たちに教師不在であった。
オランダ語の学術書の読解研究に専心し蘭学は医学を中心に時代を経て天文学、暦学、地理学、化学、兵学などを学んだ。
オランダ書の翻訳過程で威力を発揮したのが、漢語のもつ造語能力である。
たとえば、zeenuwの訳語、神経はじめは世奴と音訳、漢語の神気と経脈を合成した。重力、求心力、焦点、意識、感覚、知覚などの専門用語を漢語から合成した。蘭学時代に作られた専門用語がある。
福沢諭吉は横浜に出かけて英語の重要性に目覚めた。その英学において学習や翻訳には基本的に蘭学の翻訳法であった。明治10年、1877年頃までは蘭学と英学が混在した時代である。英語はオランダ語の方法に倣って学ばれていた、という。
蘭学の学習方法は漢文の教授法、学習法の影響を見ることができ、漢文漢語は日本人が最初に学んだ外国語で漢文訓読法があった。
漢文の学習は入門期には素読し、声を出して読むこと、次は会読で、何人かが集まりある者が漢籍の内容を論じ他の者が質問をするという質疑応答の学習であった。いまでは輪読会でありゼミ演習の議論であろう。
素読から会読へのやり方、漢学から蘭学へ、さらに英学へと踏襲された。
幕府の外国語学校開成所や明治初期の慶応義塾にまで英学における素読と会読、訳読であった。
中浜、ジョン、万次郎の編集、日本最初の英会話集、英米対話捷径 1859年に用いられていたのも漢文訓読法である。
明治20年、1887年代まで行なわれていたのは漢学・蘭学以来の伝統的な方式をふまえたものと言えよう。