日本語教育史(16) 漂流民、光太夫
西洋人の日本語発見 の記述を読む。
ロシアで1734年に、日本誌 が刊行。
1745年、南部佐井村多賀丸が魯西亞、オンネコタン島に漂着、18名の内8名死亡、10名はペテルブルグに送られた。その一部の者、イルクーツクで日本語学校の教師となる、1754年のこと、魯西亞語を学んだ。
1753年、日本語学校をイルクーツク航海学校の付属校として創設、日本人講師がペテルブルグから3名、ヤクーツクから4名がやってきた。以後60年続く。
1771年、伊勢白子の神昌丸が魯西亞、アリュ―シャン列島のアムチートカ島に漂着、船長の大黒屋光太夫、新蔵らは助けられた。光太夫は1788年まで魯西亞に居た。光太夫の仲間、ショウゾウ、シンゾウは魯西亞に永住した。ともに日本語学校講師となり、それぞれ、F.シトニコフ、N.P.コロチギンと名乗った。ショウゾウは約5年、シンゾウは約20年、死去するまで、教科書や辞典を作成し日本語教育に力を注いだ。シンゾウは魯西亞夫人とのあいだで3人の子をもうけた。ドイツの言語学者、クラブロートの日本語研究に助力した。三国通覧図説、ドイツ語訳の作業をした。なお、光太夫は帰国時に同行の魯西亞語通訳がいたが、通訳は日本人に日本語を習ったと証言しているうようだ。
1782年、アンドレイ・タターリノフが、レクシコン を著わした。小魯日辞典で帝室アカデミーに提出したもの。また、日本文字が初めて、組織的に伝えられた。アンドレイは、イワン・イワノ―ヴッチ・タターリノフ、日本名は左之助また三之助と魯西亞夫人とのあいだ生まれた息子である。タターリノフは、ヤクーツクから来た4名のうちの一人。
光太夫は帰還した翌年、1793年、将軍家斉の午前で漂流を語り、公的記録、北槎聞略 が著わされた。執筆者は同席したと考えられる儒学者の桂川甫周である。これによって、日本語学の実態が明らかにある。
同記録の北槎聞略九、雑載に、万国寄語の書 と見え、P.S.バルラス編集、欽定全世界言語比較辞典、全3巻 のことである。エカテリナ女帝の命による。光太夫が助力し増訂版に参画、日本語に手を入れた。1790年から1年かけてのこと、増訂第4巻に日本語がある。
欽定全世界言語比較辞典は、魯西亞語273語と数詞1~1000に対照して各国語を載せる。異言語は、計196種、うちアジア145、ヨーロッパ関係51、日本語は161番目にある。1791年に完成した。
編者のバルラス、このルは小字表記である、ドイツ人博物学者で、オランダ、イギリスで学問し魯西亞宮廷に請われた。
光太夫はさきの雑載に、伊勢弁で補訂した様子がうかがえる、もとの南部東北弁を批判するような記述がある。
西洋人の日本語発見 の記述を読む。
ロシアで1734年に、日本誌 が刊行。
1745年、南部佐井村多賀丸が魯西亞、オンネコタン島に漂着、18名の内8名死亡、10名はペテルブルグに送られた。その一部の者、イルクーツクで日本語学校の教師となる、1754年のこと、魯西亞語を学んだ。
1753年、日本語学校をイルクーツク航海学校の付属校として創設、日本人講師がペテルブルグから3名、ヤクーツクから4名がやってきた。以後60年続く。
1771年、伊勢白子の神昌丸が魯西亞、アリュ―シャン列島のアムチートカ島に漂着、船長の大黒屋光太夫、新蔵らは助けられた。光太夫は1788年まで魯西亞に居た。光太夫の仲間、ショウゾウ、シンゾウは魯西亞に永住した。ともに日本語学校講師となり、それぞれ、F.シトニコフ、N.P.コロチギンと名乗った。ショウゾウは約5年、シンゾウは約20年、死去するまで、教科書や辞典を作成し日本語教育に力を注いだ。シンゾウは魯西亞夫人とのあいだで3人の子をもうけた。ドイツの言語学者、クラブロートの日本語研究に助力した。三国通覧図説、ドイツ語訳の作業をした。なお、光太夫は帰国時に同行の魯西亞語通訳がいたが、通訳は日本人に日本語を習ったと証言しているうようだ。
1782年、アンドレイ・タターリノフが、レクシコン を著わした。小魯日辞典で帝室アカデミーに提出したもの。また、日本文字が初めて、組織的に伝えられた。アンドレイは、イワン・イワノ―ヴッチ・タターリノフ、日本名は左之助また三之助と魯西亞夫人とのあいだ生まれた息子である。タターリノフは、ヤクーツクから来た4名のうちの一人。
光太夫は帰還した翌年、1793年、将軍家斉の午前で漂流を語り、公的記録、北槎聞略 が著わされた。執筆者は同席したと考えられる儒学者の桂川甫周である。これによって、日本語学の実態が明らかにある。
同記録の北槎聞略九、雑載に、万国寄語の書 と見え、P.S.バルラス編集、欽定全世界言語比較辞典、全3巻 のことである。エカテリナ女帝の命による。光太夫が助力し増訂版に参画、日本語に手を入れた。1790年から1年かけてのこと、増訂第4巻に日本語がある。
欽定全世界言語比較辞典は、魯西亞語273語と数詞1~1000に対照して各国語を載せる。異言語は、計196種、うちアジア145、ヨーロッパ関係51、日本語は161番目にある。1791年に完成した。
編者のバルラス、このルは小字表記である、ドイツ人博物学者で、オランダ、イギリスで学問し魯西亞宮廷に請われた。
光太夫はさきの雑載に、伊勢弁で補訂した様子がうかがえる、もとの南部東北弁を批判するような記述がある。