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日本語文法議論2389
漢文を学び洋文を学び和文を綴ってきている日本語、洋文とは何のことか、造語してみて英文だけでいいのでないかと思うけれど、漢語洋語和語という発想に合わせたようなもので、外来語とか、外国語とか、漢語も中国語として外国語扱いだから、日本語を本来日本語として探すのは、探すというか、古典漢語にあって国語からも考えることになるのは難しい作業である。
だから、外来思想をどうとらえているかと、仏教にしてそう思う。
神仏はコンゼンイッタイとなってしまった、といえば、ほんとうか。
漢文を訓読して膠着語の使い方を訓読方法で訓点と学び、仮名符号にした。それは1600年になんなんとする。偉大なる民族の営為である。その学びは屈折変化の格のとらえ方におよびそのままに膠着語をして語形変化のように意識することができる。
甲乙平紹介シタ、という例文を考えて、実際には
甲ガ乙に丙を紹介シタ
となる文の関係構成を日本語文法として考える。
つまり、そこには国語が分析してきた助詞が機能する。それを踏まえてのことだから、
甲、乙、平、紹介した
というようなことが言える。
つまり、つまり、甲ガといっているときにそれで主格主語をとらえているのだから、甲乙平の順にも微妙な順番があって、全甲などというとなんだかオール5とかAとかで1番となってしまうイメージをうまく利用すれば、ここが学説の、実は学説にはからくりがあるという、ポイントになるが、乙丙甲紹介シタといっても甲丙乙紹介シタといってみても丙乙甲紹介シタといって、どれも関係構成に優劣がないと言って見せるのは巧みなことである。
よく考えると、山田、鈴木、田中にしてしまうと、その関係には確かにわからなくなってしまうから、なるほどそうだと思い込んでしまうけれど、甲ガと思ってしまうと、乙に丙を、となることはごく自然でないかと、学説ならぬ、からくり論のようなものに併せていってみると、国語が見つけてきた、ガ、を、に、というのをもっと重視してこの順序にも順番というものがある日本語だと知っていてくれないと、カラクリ論の目くらましを食らってしまうのである。
甲、乙、丙と並ぶと、順を感じる、それを優劣がない動詞へのかかり方とするのは、日本語を知らないよ言ってよい。
この関係構成を採れば、乙に丙を、甲ガ紹介シタ となる文例を文章から用例採取することになるだろう。
もう少し、乙に甲が丙を紹介シタ、といっている。
紹介するという動作はどの言語にもありうる3者関係だなどといって日本語に巧みに順を作るが、極端に言うと、
山田さん、鈴木さん、田中さん、紹介した
と聞いたときに、その関係構成は次のようである。
山田さんに、鈴木さんが田中さんを紹介した
となるのが日本語である。まま、次のように言っている場合もある。
山田さんは、鈴木さんが田中さんに紹介した
学説といってきたものを理論として見直すとどうなるか。
象は例文には三上学説といい得ても、甲乙平紹介シタについては三上理論といってしまえば、その実態がより鮮明になるかもしれない。
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