現代日本語文法文章論 題材は、タイトルが、潮待ちの島もてなしの記 とあり、副題に、瀬戸内の藩営接待所、統括武士の苦労日記読み解く とある。日本経済新聞の文化面、20140929付けである。執筆者は 橋本矩之氏である。なお、有料会員サイトであり、著作の全文をこのように言語分析に資料としているので、そのことをお断りするとともに、ここにお礼を申したい。
冒頭の文は、次である。
> 愛媛県の旧中島町(現松山市)にある津和地(つわじ)島は江戸時代、瀬戸内航路の要衝だった。
末尾の文は、つぎである。
>いつの日か出版計画が完結することを期待したい。
書き出しの文段は、次のようである
> 愛媛県の旧中島町(現松山市)にある津和地(つわじ)島は江戸時代、瀬戸内航路の要衝だった。1636年、松山藩はこの地に直営の公儀接待所「お茶屋」を開設。幕府の役人や、参勤交代で上下向する西国諸大名の接待に当たらせた。責任者は松山藩士の八原佐野右衛門。八原家は幕末までこの任に当たり、当主は代々、佐野右衛門を襲名。膨大な勤番日記を残している。
末尾の文段は、次のようである。
> 本では出版計画で対象となった時期よりも前の事柄や周辺の島に残る記録もひもといた。津和地島や怒和島などからなる中島地区の歴史や、瀬戸内に生きた人々の姿を広く知ってもらいたいと思ったからだ。御用日記の資料はフィルムに収められている。いつの日か出版計画が完結することを期待したい。
段落は、見出しのもと、次のようである。
> 海のサービスエリア
津和地島は強風を避けることができる湾曲した港があり、風待ち、潮待ちに適していた。航行に必要な薪炭や飲料水を補給することもできた。島の東端には地元で「常燈の鼻」と呼ばれる灯籠があり、番人が置かれた。接待所は今で言えば高速道のサービスエリアのようなものだった。
日記を読むと、気の抜けない日々が続いていたことが分かる。主だった山の頂に遠見番を置き、狼煙(のろし)を上げ継がせて、お茶屋に船の接近を知らせた。
> 進物・改修に心砕く
進物も決まっていて、長崎奉行には、寒晒粉(かんざらしこ)か葛粉を一箱、さらに干鯛(ほしだい)一箱と角樽(だる)の酒二つを贈ることになっていた。酒については興味深い記録が残る。事前に用意した酒が傷んでいたことがあり、対岸の広島から酒を調達した場合の費用について、関係者とこまごまと相談していたのだ。また、近隣の代官ら役人の交代時には、現在でも松山の名産品の一つに数えられる「五色そうめん」が進物の定番になっていた時代があった。
> 出版計画の再開期待
旧中島町で進められた出版事業では、写本が残る1768年からの日記が対象になった。87年分までをまとめ、1985年に刊行された第1巻は愛媛出版文化賞を受賞。87年には1788~1800年を対象にした第2巻が出たが、諸般の事情で全5巻で完結する出版計画は中断してしまった。
春秋
2014/9/29付日本経済新聞
活火山、休火山、死火山――。むかし学校でこの3分類を教わり、頭にすり込まれた人は多いだろう。阿蘇山や浅間山は「活」、富士山は「休」、御嶽山や箱根山は「死」であった。しかし現在はこういう区分は廃され、過去1万年以内に噴火した山はすべて「活」だ。
歴史時代、つまり文字が生まれてからの噴火記録がなければ死んだと見なし、記録があっても長く眠っていれば休止中というのがかつての判定だった。大自然に人間の時間感覚をあてはめたのだから無理な話で、しだいに再検討が進んだ。それを決定づけたのが1979年の御嶽山の噴火だ。死火山が生きていたのである。
その御嶽が、また猛(たけ)っている。紅葉シーズンのおだやかな週末、不意打ちのように襲った爆発はたくさんの登山客をのみ込んだ。救援救助も思うにまかせず、被害の全容さえつかめぬ事態にもどかしい思いがただ募る。火山にしてみれば、これもほんの一瞬の身じろぎであるに違いない。人はその前になすすべもないのか。
真冬のよく晴れた日、濃尾平野から望む御嶽山は息をのむほどの荘厳さである。篤(あつ)い山岳信仰を生み、噴火などすっかり絶えたとも思わせてきたゆえんだ。けれど火山にあっては「休」も「死」もかりそめの姿、おしなべて「活」であるという現実にあらためて向き合わねばなるまい。それにしても御嶽よ、はやく鎮まれ!
冒頭の文は、次である。
> 愛媛県の旧中島町(現松山市)にある津和地(つわじ)島は江戸時代、瀬戸内航路の要衝だった。
末尾の文は、つぎである。
>いつの日か出版計画が完結することを期待したい。
書き出しの文段は、次のようである
> 愛媛県の旧中島町(現松山市)にある津和地(つわじ)島は江戸時代、瀬戸内航路の要衝だった。1636年、松山藩はこの地に直営の公儀接待所「お茶屋」を開設。幕府の役人や、参勤交代で上下向する西国諸大名の接待に当たらせた。責任者は松山藩士の八原佐野右衛門。八原家は幕末までこの任に当たり、当主は代々、佐野右衛門を襲名。膨大な勤番日記を残している。
末尾の文段は、次のようである。
> 本では出版計画で対象となった時期よりも前の事柄や周辺の島に残る記録もひもといた。津和地島や怒和島などからなる中島地区の歴史や、瀬戸内に生きた人々の姿を広く知ってもらいたいと思ったからだ。御用日記の資料はフィルムに収められている。いつの日か出版計画が完結することを期待したい。
段落は、見出しのもと、次のようである。
> 海のサービスエリア
津和地島は強風を避けることができる湾曲した港があり、風待ち、潮待ちに適していた。航行に必要な薪炭や飲料水を補給することもできた。島の東端には地元で「常燈の鼻」と呼ばれる灯籠があり、番人が置かれた。接待所は今で言えば高速道のサービスエリアのようなものだった。
日記を読むと、気の抜けない日々が続いていたことが分かる。主だった山の頂に遠見番を置き、狼煙(のろし)を上げ継がせて、お茶屋に船の接近を知らせた。
> 進物・改修に心砕く
進物も決まっていて、長崎奉行には、寒晒粉(かんざらしこ)か葛粉を一箱、さらに干鯛(ほしだい)一箱と角樽(だる)の酒二つを贈ることになっていた。酒については興味深い記録が残る。事前に用意した酒が傷んでいたことがあり、対岸の広島から酒を調達した場合の費用について、関係者とこまごまと相談していたのだ。また、近隣の代官ら役人の交代時には、現在でも松山の名産品の一つに数えられる「五色そうめん」が進物の定番になっていた時代があった。
> 出版計画の再開期待
旧中島町で進められた出版事業では、写本が残る1768年からの日記が対象になった。87年分までをまとめ、1985年に刊行された第1巻は愛媛出版文化賞を受賞。87年には1788~1800年を対象にした第2巻が出たが、諸般の事情で全5巻で完結する出版計画は中断してしまった。
春秋
2014/9/29付日本経済新聞
活火山、休火山、死火山――。むかし学校でこの3分類を教わり、頭にすり込まれた人は多いだろう。阿蘇山や浅間山は「活」、富士山は「休」、御嶽山や箱根山は「死」であった。しかし現在はこういう区分は廃され、過去1万年以内に噴火した山はすべて「活」だ。
歴史時代、つまり文字が生まれてからの噴火記録がなければ死んだと見なし、記録があっても長く眠っていれば休止中というのがかつての判定だった。大自然に人間の時間感覚をあてはめたのだから無理な話で、しだいに再検討が進んだ。それを決定づけたのが1979年の御嶽山の噴火だ。死火山が生きていたのである。
その御嶽が、また猛(たけ)っている。紅葉シーズンのおだやかな週末、不意打ちのように襲った爆発はたくさんの登山客をのみ込んだ。救援救助も思うにまかせず、被害の全容さえつかめぬ事態にもどかしい思いがただ募る。火山にしてみれば、これもほんの一瞬の身じろぎであるに違いない。人はその前になすすべもないのか。
真冬のよく晴れた日、濃尾平野から望む御嶽山は息をのむほどの荘厳さである。篤(あつ)い山岳信仰を生み、噴火などすっかり絶えたとも思わせてきたゆえんだ。けれど火山にあっては「休」も「死」もかりそめの姿、おしなべて「活」であるという現実にあらためて向き合わねばなるまい。それにしても御嶽よ、はやく鎮まれ!