日本文章論を考える。ブログのカテゴリーに、文法文章論、日本語文章論、日本語文法文章論を設けている。そこにまた、日本文章とは、これいかに、文章ジャンルを文体に見ることができる、その日本文章論となる。文章史は文体史または文体表記史にみる。 . . . 本文を読む
日本の文法学説は国語学において3大文法と言われた学説があり、日本語学に及んで宮地裕先生による、2つの文法論が加えられて、5大文法学説となった。その後には、教科文法、日本語教育用文法、新文法となって、現在に至っている。
まず3大文法は、それぞれ学者の名前をもって呼称される。
国語学での学説
山田文法
橋本文法
時枝文法
次に日本語学の文法学説に加えられたのは次である。
日本語学の文法学説
大槻文法学説
松下文法学説
この時には文法論が見直されて、文法に形態論と統語論が分野となって議論された。
1960年代のことであるから、それ以後に、日本語文法は学説を数えることになる。
形態文法
宮地学説
森岡学説
鈴木学説
統語文法
寺村学説
新田学説
三上学説
北原学説
渡辺学説
現代日本文法研究会
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文論と文章論と、その日本語のとらえ方を見てくると、文の単位と文章の単位とが、日本語に影響した言語の見方で異なっていることがわかる。句は、かたや句子となっているし、また、文は主語が必須の要素であるという、日本語の分析に必要な考え方がとらえきれていない。近代以降、明治期から昭和期までに、単位として、文と文章は同じ扱いを受けてきたのであるが、そこには句の自立性を言うものと、主語の要素をいうものが、日本語文法、日本語文章法のためには、必須要素を問うことについていえば、緩やかな規定であったようにも見える。昭和の半ばに、言語の現象が、アメリカ英語の接触において、学校教育の義務として国民が等しく、10代の半ばまで義務教育の科目として学習することになった。それは、2次大戦前の漢文の科目教育に準じるものであったと見えるから、おおきく、学習に日本語を英語と比することとなった。 . . . 本文を読む
日本語文法はひとくちに、英語文法の影響にある明治期以降の文法論として展開した。それまでの文法が漢文法を入れたものであったから、古典語文法とするのは漢文訓読法と古語文法の論理で行われようとした。その流れは口語文法としての国語文法に連なることになる。文語文法の規範は漢文にあったのだから、国語に改革をして口語文法を入れるのは現代語文法に展開する。日本語文章法は漢文法のままにはならなかった。文体史また表記史の上で漢文訓読のままにはならなかったのである。ここに日本語文法文章法を考えることは、いわば西洋から流入した言語概念に文法とし、伝統にあった漢語に和語を基盤にした文章法が加えられることになる。 . . . 本文を読む
語論は語構成論になる、文論は文法論になる、文章論は文章構成論になる、とすれば、日本語文法の単位体に設定する単位それぞれの関係構成論は日本語文法にそれそれに議論を持つことになる。形態は形態論になる。形態素をもって形態素論を行うことがあるが、それは文法形態として要素を最小にする単位であるから、形態論に包括することができる。すると論にはやはり、関係構成する語と語との議論として文法論に包括することがある。そのあいだに、句論、節論を持つことになる。句と節は日本語文法では日本語の特徴とする単位であるから、それぞれに相互にかかわる論を持つ。文の要素に主語と述語を議論する文法論であるから、句には主語を持たないもの、節には主語を持つものと、その要素によって、文との関係構成を見ると、文法単位体の議論ではとらえやすい。しかしまた、句と節がもたらした、あるいは慣用句、あるいは文節という、日本語の分析ができるので、句と節が相互にかかわりあうとみることができるものである。文節は連文節によるところがあるし、そこに語の職能をどう見るかによって、さきの節になる。ここに、形態論、語論、句論、節論、文論、文章論を、日本語の文章構成に論じることになる。 . . . 本文を読む
中国文章論の1冊をあげると、中国文章論、佐藤 一郎著による。出版社の直営店で、それは、神田神保町か。研文出版、山本書店は東京都千代田区、神保町駅、A1出口すぐにある中国図書専門店として、そこであるとき、この書目を見い出した。はやる気持ちで購入したのを覚えている。同じように、出版社に汲古書院をあげるものがある。この書名を措いて、ほかに中国文章論はない。吉川全集に見えるが、中国語法である。さて、ひるがえって、日本文章論を検索すると、これまた、書名にはない。 . . . 本文を読む
文法には文を主語と述語でとらえ、文章には主題部と説明部でとらえる、という対比を、日本語文法文章論で考える。文法に文が設定される考え方で、句をとらえていた、章句の区切りにある言語主体が、文の捉え方に現れなくなった、そういう考え方が進められて、文法論が行われてきたのである。辞と詞、そこにあらわれる句は文章を構成する。文の考え方で言語主体は文の中ではモダリティと分析されたが、必ずしも文に現れないので、文とする主語と述語に、主語をかならずしも示さないことから、主語を補語とすることによって、文の考え方を変えてきている。日本語の文は、主題を持つ文章にある、そこに包摂されているので、日本語の文章として、主題を析出することになる。日本語文法文章論は日本語の言葉による論理を分析する。 . . . 本文を読む
文章があった。文を章としてたてる。その文は、綾であるから、ことばそのものを、いろいろに表現している。それが章をなすと、あやのあやである。字通によって、>また詩文の章節・楽章の意となる。文(文)が文身の意より文雅・文章の意となったように、章も入墨の意から諸義が展開する。その展開の過程は、両者に似たところがある。訓義に、詩文、楽曲の一節とある。章句となると、>【章句】しよう(しやう)く 文章の段落。章と句。〔文心雕竜、章句〕 と見える。章法、しようほう 作文の法、というのがある。わたしにとらえる文章は句を連ねたまとまりをなすものである。 . . . 本文を読む
文章に句があり節がある。文法論を文論の範疇で述べれば、句と節は主語の要素によって分ける。語と語とが主語の要素を持たないままに関係構成すれば、それは句レベルである。節は語と語とが関係構成して、文のなかにもう一つの文の関係構成を持てば、節となる。言い換えあれば、句はそのままで文になることはないが、節はそのままで文になる。この分け方は主語の要素を前提にした文単位の見方であるから、それを文章レベルでとらえる場合はどうなるか。ここに、日本語文法をとらえる主語の現れ方が議論されてきていることがわかる。文に現れない主語が、文章の文のなかにあるというふうに、文章には主語があるとする考え方である。文章は句、節はまた、その形式でもって、文とともに文章の関係構成にあるのが日本語である。文があって、句があって、ときには語だけでもって、文章を作っている。その句には、漢語文法のとらえ方による章句のことがあった。節には文法の主語の要素を見る英語文法などのとらえ方があった。日本語には、そのいずれをも許容する文章構造、文構造によると、句構造、節構造が認められる。 . . . 本文を読む
句は語と語とが関係構成をして、語と文のあいだにある単位である。語の単位より、語が複合すると、できる単位であるが、それは句のほかに節があり、節が複合すると文となる。句と節が語から文の単位までに段階を見せる。文の要素に主語と述語をとらえると、句には主語を含まないもの、節には主語を含むものと見ることができて、それぞれ、文のなかで働くが、自立したまとまりを見せる。句は連語として見ることがあり、節は文に従属することがあるので、連句を構成していると見ることができる。ここで句を慣用句のように意味のまとまりをもって見ると、それには表現性を持った用法としての特徴が生まれる。主語を加えた表現性には慣用句がそのまま文として扱うことがあり、それは諺としている。諺に成語として扱うのは語が漢語由来の意味内容を持つものであるし、成句は文句と言われるように、成語に対して見れば日本由来の表現性が強いものである。慣用句を用い、成句を用い、それを文句にすれば、自立した文の要素となるから、そのまま意味内容を説明できるものとなる。 . . . 本文を読む