漢学は洋学に対して現われたのであった。国学は漢学に対してであった。
このような図式がどのように起こったか。
漢学は本来、日本にはいった漢籍を通して学ぶことであり、それは洋学が意識されるまではすべてが外来のものを漢学と称しただろうから、中国伝来の学問であるが、考証学として清代におこった方法を時代の流れにおいて漢学として捉えられた。
この漢学は宋学について思弁学であったものに対抗したととのことである。
漢学は儒教、明経道であり、のちに朱子学へと移る
次は、ウイキペディアより。
>漢学とは、特に江戸時代の日本において、中国伝来の学問の総称。
洋学(蘭学)・国学に対して、漢籍を通して古典的な思想文物を学び、漢詩文等の作成ができるよう学習する学問の総称。なお、清朝の学問傾向を引き継いで、宋明理学に対する伝統的(この意味で王朝名としての「漢」を用いる)な経学及びの考証学を、清朝における用語にあわせ漢学と呼ぶこともあるが希である。
江戸時代
江戸時代中期までにおいては、外国の優れた学術は漢籍の形で中国から入ってくるのが一般的であったため、外来の学術研究は全て「漢学」と考えられてきた。ところが、ヨーロッパの書籍から直接知識を得ようとする洋学(蘭学)が出現するようになると、従来の学問(日本固有の学術及び中国伝来の学術)はこれと区別する意味で「皇漢学(こうかんがく)」と称されるようになる。ところが本居宣長など国学や神道を研究する人々は漢学(からまなび)こそ古来日本以来の精神を毒しているとこれを排する動きが強まり、「皇漢学」という呼び名も次第に廃れて国学と漢学は分離されるようになった。
日本の儒教
>南宋の朱熹によってはじめられた朱子学は、日本では宋学と称され、日本へは1199年(正治元年)に入宋した俊芿が儒教の典籍250巻を持ち帰ったのが始まりとされる。以来、渡宋した円爾弁円や中巌円月らの禅僧や元の侵攻を避け、南宋から渡ってきた知識人によって広められ、1299年(正安元年)、元より来日した一山一寧がもたらした注釈によって学理が完成されたといわれる。14世紀に入ってあらわれた天台宗の僧玄恵は朱子学に通じ、後醍醐天皇の側近として仕え、その大義名分論(帝権の正統性と君臣の別をわきまえることを重んじる思想)は天皇の討幕計画や建武新政に大きな影響を与えた[要出典]。
中国から、朱子学と陽明学が静座(静坐)(座禅)などの行法をなくした純粋な学問として伝来し、特に朱子学は幕府によって封建支配のための思想として採用された。藤原惺窩の弟子である林羅山が徳川家康に仕え、以来、林家が大学頭に任ぜられ、幕府の文教政策を統制した。
朱子学は、文治政治移行の傾向を見せる幕政において、立身出世の途となり、林家の他の学派も成長した。特に木下順庵門下には、新井白石、室鳩巣、雨森芳洲、祇園南海ら多くの人材を輩出。幕府および各藩の政策決定に大きな影響を与えた[要出典]。
世界大百科事典内の漢学の言及
【考証学】より
…中国,清代の学界の主流をなした学問の方法。漢代の古典研究を尊重したことから漢学ともいう。宋代の思弁哲学である朱子学や,明代の観念論哲学である陽明学とはおよそ対照的に,広く資料を収集し,厳密な証拠にもとづいて実証的に学問を研究しようとするもので,〈実事求是〉がその信条であった。…
【中国学】より
…中国学という呼称は,従来は支那学とよばれてきて,今もその名称が使われることもあり,元来は西洋とくにフランスで18世紀に起こったシノロジーsinologieの訳語であった。この学風の実質は,中国本土においても存在し,これを国学あるいは漢学と称したが,20世紀に入って日本の京都で栄えた中国に関する学派が,狩野直喜(かのなおき),内藤湖南を中心に哲学,文学,史学の研究者,学生を網羅した支那学会という学会をつくり,その分派として雑誌《支那学》を編集発行する同人の集りを支那学社と称したのは,西洋のシノロジーを意識してのことであった。第2次世界大戦後,京都の支那学会が休眠状態に陥る一方,全国的規模で新たに組織され,年刊の《日本中国学会報》を発行している日本中国学会は,主として中国哲学,中国文学の研究者によってのみ構成されており,中国史学の研究者はこの学会に加わらず,東洋史の主要メンバーとして日本史や西洋史の研究者とともにいくつかの歴史学会としてのまとまりを呈し活動している。…
【文献学】より
…《古事記伝》は,《古事記》の文法的解釈にとどまらず,歴史,著述事情,文体などあらゆる角度から言語に密着して古道を説くものである。そして,《古事記伝》の方法は,中国の経学(けいがく),特に清朝の考証学または漢学と呼ばれる学問と共通する。漢学は,宋代の朱熹(子)らの経書解釈がみずからの思想によって演繹的に説明するのに反対し,経書の言語そのものに密着して,漢代の注釈や漢以前の文献の言語を参考にして帰納的に解釈したり,批判したりするものであった。…
※「漢学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
大辞林 第三版の解説
かんがく【漢学】
①中国の学術,主として儒教経学を研究する学問の日本での総称。現代中国に関するものは含まない。
②中国で,宋学に対して,漢代訓詁学に基礎をおく清朝の考証学をいう。
デジタル大辞泉の解説
かん‐がく 【漢学】
1 日本で、中国の古典をもとに中国思想や詩文を研究する学問。国学・洋学に対していう。
2 中国で、漢代の訓詁学(くんこがく)、また、それに基づく清代の考証学をいう。
このような図式がどのように起こったか。
漢学は本来、日本にはいった漢籍を通して学ぶことであり、それは洋学が意識されるまではすべてが外来のものを漢学と称しただろうから、中国伝来の学問であるが、考証学として清代におこった方法を時代の流れにおいて漢学として捉えられた。
この漢学は宋学について思弁学であったものに対抗したととのことである。
漢学は儒教、明経道であり、のちに朱子学へと移る
次は、ウイキペディアより。
>漢学とは、特に江戸時代の日本において、中国伝来の学問の総称。
洋学(蘭学)・国学に対して、漢籍を通して古典的な思想文物を学び、漢詩文等の作成ができるよう学習する学問の総称。なお、清朝の学問傾向を引き継いで、宋明理学に対する伝統的(この意味で王朝名としての「漢」を用いる)な経学及びの考証学を、清朝における用語にあわせ漢学と呼ぶこともあるが希である。
江戸時代
江戸時代中期までにおいては、外国の優れた学術は漢籍の形で中国から入ってくるのが一般的であったため、外来の学術研究は全て「漢学」と考えられてきた。ところが、ヨーロッパの書籍から直接知識を得ようとする洋学(蘭学)が出現するようになると、従来の学問(日本固有の学術及び中国伝来の学術)はこれと区別する意味で「皇漢学(こうかんがく)」と称されるようになる。ところが本居宣長など国学や神道を研究する人々は漢学(からまなび)こそ古来日本以来の精神を毒しているとこれを排する動きが強まり、「皇漢学」という呼び名も次第に廃れて国学と漢学は分離されるようになった。
日本の儒教
>南宋の朱熹によってはじめられた朱子学は、日本では宋学と称され、日本へは1199年(正治元年)に入宋した俊芿が儒教の典籍250巻を持ち帰ったのが始まりとされる。以来、渡宋した円爾弁円や中巌円月らの禅僧や元の侵攻を避け、南宋から渡ってきた知識人によって広められ、1299年(正安元年)、元より来日した一山一寧がもたらした注釈によって学理が完成されたといわれる。14世紀に入ってあらわれた天台宗の僧玄恵は朱子学に通じ、後醍醐天皇の側近として仕え、その大義名分論(帝権の正統性と君臣の別をわきまえることを重んじる思想)は天皇の討幕計画や建武新政に大きな影響を与えた[要出典]。
中国から、朱子学と陽明学が静座(静坐)(座禅)などの行法をなくした純粋な学問として伝来し、特に朱子学は幕府によって封建支配のための思想として採用された。藤原惺窩の弟子である林羅山が徳川家康に仕え、以来、林家が大学頭に任ぜられ、幕府の文教政策を統制した。
朱子学は、文治政治移行の傾向を見せる幕政において、立身出世の途となり、林家の他の学派も成長した。特に木下順庵門下には、新井白石、室鳩巣、雨森芳洲、祇園南海ら多くの人材を輩出。幕府および各藩の政策決定に大きな影響を与えた[要出典]。
世界大百科事典内の漢学の言及
【考証学】より
…中国,清代の学界の主流をなした学問の方法。漢代の古典研究を尊重したことから漢学ともいう。宋代の思弁哲学である朱子学や,明代の観念論哲学である陽明学とはおよそ対照的に,広く資料を収集し,厳密な証拠にもとづいて実証的に学問を研究しようとするもので,〈実事求是〉がその信条であった。…
【中国学】より
…中国学という呼称は,従来は支那学とよばれてきて,今もその名称が使われることもあり,元来は西洋とくにフランスで18世紀に起こったシノロジーsinologieの訳語であった。この学風の実質は,中国本土においても存在し,これを国学あるいは漢学と称したが,20世紀に入って日本の京都で栄えた中国に関する学派が,狩野直喜(かのなおき),内藤湖南を中心に哲学,文学,史学の研究者,学生を網羅した支那学会という学会をつくり,その分派として雑誌《支那学》を編集発行する同人の集りを支那学社と称したのは,西洋のシノロジーを意識してのことであった。第2次世界大戦後,京都の支那学会が休眠状態に陥る一方,全国的規模で新たに組織され,年刊の《日本中国学会報》を発行している日本中国学会は,主として中国哲学,中国文学の研究者によってのみ構成されており,中国史学の研究者はこの学会に加わらず,東洋史の主要メンバーとして日本史や西洋史の研究者とともにいくつかの歴史学会としてのまとまりを呈し活動している。…
【文献学】より
…《古事記伝》は,《古事記》の文法的解釈にとどまらず,歴史,著述事情,文体などあらゆる角度から言語に密着して古道を説くものである。そして,《古事記伝》の方法は,中国の経学(けいがく),特に清朝の考証学または漢学と呼ばれる学問と共通する。漢学は,宋代の朱熹(子)らの経書解釈がみずからの思想によって演繹的に説明するのに反対し,経書の言語そのものに密着して,漢代の注釈や漢以前の文献の言語を参考にして帰納的に解釈したり,批判したりするものであった。…
※「漢学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
大辞林 第三版の解説
かんがく【漢学】
①中国の学術,主として儒教経学を研究する学問の日本での総称。現代中国に関するものは含まない。
②中国で,宋学に対して,漢代訓詁学に基礎をおく清朝の考証学をいう。
デジタル大辞泉の解説
かん‐がく 【漢学】
1 日本で、中国の古典をもとに中国思想や詩文を研究する学問。国学・洋学に対していう。
2 中国で、漢代の訓詁学(くんこがく)、また、それに基づく清代の考証学をいう。