信仰はその対象による。しんこう、しんごう と言うのを、信心として、とらえるわたしたちである。ともに、神仏へ祈りを持つ。信心の慣用句を、信心過ぎて極楽を通り越す、信心は徳の余り、と、見ると、キリスト教で言う、教会が認める信仰また信仰告白との違いがあるようである。信仰告白は信仰規準、信条でもあるし、その対象がまた、キリスト教やイスラム教などでは、神に対する自己の信仰を明白な言葉で言い表すこととなる。
研究社 新和英中辞典での「信仰心」の英訳
信仰心 <信仰>
(religious) piety
信仰心 <信仰>
(religious) piety
出典:プログレッシブ和英中辞典
しんじん【信心】
faith, belief; 〔敬神〕piety
仏教を信心する
believe in Buddhism
神を信心する
worship God
信心深い
pious/devout/religious
しん‐こう〔‐カウ〕【信仰】 の意味
出典:デジタル大辞泉
[名](スル)《古くは「しんごう」》
1 神仏などを信じてあがめること。また、ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること。「信仰が厚い」「守護神として信仰する」
2 特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと。「古典的理論への信仰」「ブランド信仰」
しん‐じん【信心】 の意味
出典:デジタル大辞泉
[名](スル)神仏を信仰する心。また、加護や救済を信じて、神仏に祈ること。「信心が足りない」「信心を起こす」「信心深い」
http://stumbleon.blog.fc2.com/blog-entry-22.html
>
日本人の信仰心について 外国人の意見
Japan Todayより
How religious are Japanese people?
日本人はどのくらい宗教的か?
海外の友達や親類から日本人の信仰心について尋ねられることがあります。これは簡単に答えられる質問ではありません。神道、仏教、靖国神社、創価学会や身近にある質素な神社まで、この話題に関する本は書かれています。日本はカルトやセクトの肥沃な土壌です。文化庁によれば、2011年までに、180000を超えるグループが宗教法人として登録されています。
日本人はreligious(宗教的)であるというより、spiritual(霊的、魂の、超自然的)であると私は思います。私の知っている日本人のほとんどは、神様を信じない、どの宗教も信じないと言います。一方で彼らはお盆や新年にはこぞって神社に行きます。大事な試験の前、成人式、就職面接、彼女、彼氏を探して、神社の絵馬に祈りを書いています。野球の春キャンプの前には、神道の神主がお祓いをします。新しい建物を建てる時には地鎮祭をやるし、長く使った機械や乗り物が引退する時にも神主が出て来ます。
西洋人の中にはこれらの儀式を迷信だと言う人もいますが、私はこれらが日本社会に深く根ざした部分であると思います。神社に行くことは宗教的儀式というより、文化的な伝統です。近所の神社が何世紀にも渡って日本の共同体の重要な部分であったということを考えれば当然でしょう。
私が初めて日本に来たのは80年代中盤ですが、神道や仏教について少ししか知らなかったし、それらが、日本の生活でどのような役割を果たしているのか知りませんでした。ある老人は日本人は神道とともに生まれ、仏教徒として死んで行く、と冗談っぽく言いました。
カトリックであり、毎週日曜に教会に行く自分にとっては、毎週日曜日に教会に行かない人は宗教的であるとは言えません。それで、当時の私の結論は、日本人には全く信仰心がないというものでした。
多くの場合、日本人は宗教を ― 国内のものであれ、外国のものであれ ― 一時的な流行や海外の文化を扱うのと同じやり方で扱ってきました。借用し、適応させ、必要な時か便利な時に、宗教のある側面だけを使うのです。良い例は、キリスト教スタイルの結婚式です。
日本人は他の宗教にそんなに精通している訳ではないけれども、とても敬意を払います。日本に住んで30年になるけれども、日本人が他者の信仰についてからかったり、”おとぎ話”を信じていると馬鹿にするところを見たことがありません。そのような無礼な行動は日本以外ではしばしば見かけますが。日本人が厳しいのはカルト信者に対してだけです。
27年ほど前から、六本木の我々の教会ではライスパトロールというホームレスの人たちにおにぎりを配る活動を始めました。カトリックにより始められましたが、今では日本人を含む、非カトリックにも広がっています。彼らにとっては目を開かせてくれるイベントになるようです。
災害や事故、殺人などで親族が集まって遺族のために祈るときにはいつもそうですが、特に2011年の災害の後、日本人の間にスピリチャルな感覚が強まっているのが感じられます。
今月初めのストーカー殺人事件で、親族は痛みと苦しみ、天国へ行けるように祈っているとの声明を出しました。心痛む表現です。
そのような悲劇の時には、日本人は世界の他の人たちと何ら変わらないと思います。悲劇を前にしたら我々は答えを求めます。それを宗教と呼ぶか、スピリチャルと呼ぶか、迷信と呼ぶかは関係ありません。
コメント欄
○
日本人は世界の他の人たちと何ら変わらないと思います。
冗談でしょ?世界には中東や、北アフリカ、中央、南アジアなど、暴力的で偏屈な世界があって、日本は隔絶された世界にある。それはいいことだ。
日本には本物の宗教はない。神道は多神教の儀式のより集めで、拘束的なイデオロギーがない。仏教について、日本のサラリーマンで涅槃を追い求めてる人がどれだけいるっていうの?
政治、社会、知識階級に宗教が存在しないことは、もっとも称賛に値する日本の特質だ。
○僕は僕の妻が宗教的であるとは言えない。でもたまに、神社に行ってお祈りをするんだ。そして僕たちがニューサウスウェールズで日本人捕虜(脱走しようとして死んだ)の墓に行った時、彼女はひざまずいてお祈りをしていた。それ以外では全く宗教的なところは見せない。それは宗教的であるというより、スピリチャルであると思った。
僕が好きな日本の変わった宗教施設は、昔住んでた松原の近くにあるお寺で、人々は人形を持ち込むんだ。嘘じゃないよ。大きな箱があってそこに人形を入れるんだ。僕の妻が言うには、人形は持ち主の魂を持っているから、焼却される前にbless(祝福、供養)をする必要があるって。そのことを聞いて、多くの日本人が持っているとても素朴な気持ちがわかったし、少しばかり妻への愛が強まったんだ。
○君のコメントは記事より面白いね。
○キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、等々、の宗教病は人間が死を恐れない段階まで進歩した時にのみ消える。そのような点から、死の受け入れが西洋に比べてより現実的で、自然で、ずっと感傷的ではない、日本で暮らすことは本当に新鮮な喜びだ。
○日本には多くのお寺や神社があり、様々なイベントや祭りが開催されているので、宗教的であるように見えるのは明らかだ。しかしながら、調査をすれば彼らが宗教的ではないと示すということは、彼らは特定の宗教を実践したり、没頭してはいないということだろう。日本では人々は宗教が何であるかについて違った考えを持っている。彼らは宗教とはキリスト教のような、組織化され、聖典に基づくものであると考えおり、さらに教義と規則であると考えている。文化と宗教が複雑に絡み合っているので、日本人は自分たちの宗教に気がつかない。日本人は最も熱烈な信仰心のある人たちではない。複雑になっていて、キリスト教徒が考えるような宗教心は持っていない。もし日本の人々の宗教を特徴づけるとすれば、ある教義に厳密に従うというよりも、家族と伝統に密接につながった行いであるといえるだろう。
○日本人は宗教によって満たされた静かな精神性を持っていると思う。
私の妻(日本の田舎出身)とその家族、友達はこのとても自然な精神性を、日々の生活で、ほんの少しだけ見せる。この精神性の核にあるのは本当に強い”場所”とのつながりだ。先祖、伝統、信仰、他者、との強くてかすかなつながり。文章にすることは難しくてうまく言えないけど、それはとても感じの良いものでいつも感心させられる。
○個人的に、日本がキリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの主流な宗教の影響下にないことはいいことだと思う。これらは頭痛しかもたらさない。日本がこれらの宗教に支配されないことを願うよ。
○いい記事だ。西洋の神の概念は未開な異教徒の日本には根付かないと思う。それは良いことでもあり、悪いことでもある。ユダヤ教徒やキリスト教徒やイスラム教徒が信仰するような神がいないので、日本人は、そのような神信仰は迷信で馬鹿馬鹿しいと考えることができる。それと同時に、日本人は自分より高い存在との関係を得られないので、道徳的な高みに到達しようと考えない。どっちもどっちだ。全体的に言って、彼らが宗教的でないのは良いことだ。
○日本で信仰とか精神性とか語るときにはカルトの存在を無視できないよ。
○
日本には本物の宗教はない。
このたった一文だけで、君ががどれだけ侮辱的だか理解しているかい?誰が本物の宗教なんて判断するんだ?喧嘩売ってるわけじゃないけど、言葉には気をつけろよ。
○
喧嘩売ってるわけじゃないけど
彼は、本物の宗教とは”組織化された宗教”のことを言ってるんだろ?それのどこが侮辱的なんだ。
○
本物の宗教とは”組織化された宗教”のことを言ってるんだろ
神道は組織化されてないって言うのかい?天皇に聞いてくれ。
○
死の受け入れが西洋に比べてより現実的で、自然で、ずっと感傷的ではない
日本が本当にそうだと思う?具体的に何のこと?
実際はその反対だ。生へのあくなき執着、避けることのできない死の拒絶。それが日本での医療サービスの背骨になっている。
私の知り合いの73歳の牧師は、毎日充実して生きている。生や死への恐れを持っていない。すべては神の意志であると信じているからだ。彼女はボランティアのカウンセラーでキリスト教徒じゃない地元民の病気や死について相談に乗っている。
無神論者として、彼女の信仰には全く賛成できないけれども、信仰が彼女のような人の生活を苦境においても楽しくしているのが分かる。ちょっと嫉妬していることを認めるよ。
○僕の生徒の一人が言うには、日本での”宗教”の多くは詐欺だということ。結婚する時、誰か死んだ時、宗教の人間が表れて、数分ぶつぶつ聖なる文章を読み上げて、金を要求するという。
○この記事の多くには同意する。西洋の宗教では、これを信じなさいとか、こうしなさいとか、これはするなという長ったらしい”教義”という考えが中心になっている。これは全ての人に当てはまるわけではないので、とても不自由だと感じる。ほとんどの西洋の宗教ではこれを受け入れないと追い出されてしまう。
ある国の宗教的方向性については、宗教とのかかわりは個人的なものなので、それを一般化することはできないと思う。
○ほとんどの日本人は宗教的であると言える。彼らは神道か仏教徒して生まれ、キリスト教徒として結婚し、毎年クリスマスを祝い、何で死ぬんだっけ?ぐちゃくちゃに混ざっている。僕が間違ってたらごめん、仏教の僧侶は世界中で結婚しちゃいけないんだろ?でも日本の僧侶は、結婚し酒を飲み、肉を食う者もいる。
どうでもいいけど、我々は彼らを判断はできない。神(々)との関係は個人的なものだからね。
○私の理解では、日本社会の構造と道徳の多くは儒教からの影響が大きい。例えば、年長者に対する尊敬と敬語、丸暗記学習と厳しい試験。間違ってたらごめん。
○何人かの投稿には視野の狭い内容が含まれていると思う。
他人の宗教が自分と違う場合、それは宗教じゃない、霊的なものか迷信だという人がいる。他人が違うものを違う方法で崇拝しているからといって、宗教を持っていないとか、信仰心がないということではない。
人々が宗教について議論しないからといって、彼らが宗教的でないというわけでもない。日本では、あまりにも日常と一体化しているので、宗教を認識するのは難しい。宗教はそうであるべきなのだ。人々は宗教とともに生きるべきなのだ。
著者に関して一つだけ同意できない。日本人が他宗教に対して敬意を表すというところだ。
トレンディなアクセサリーとして、日本人がロザリオを身につけているのを見るといまだに震えが起こる。それは単に、正しくない。
○僕の教会には毎週たくさんの日本人が来るよ。
○
著者に関して一つだけ同意できない。日本人が他宗教に対して敬意を表すというところだ。
トレンディなアクセサリーとして、日本人がロザリオを身につけているのを見るといまだに震えが起こる。それは単に、正しくない。
これとインチキ教会ウェディング。コピーの教会を作り、牧師の衣装を作って、結婚式を挙げるなんて本当に冒涜だと思うよ。
○
日本人が他者の信仰についてからかったり、”おとぎ話”を信じていると馬鹿にするところを見たことがありません。そのような無礼な行動は日本以外ではしばしば見かけますが。
日本人が他者の信仰を馬鹿にしたりしないという点は同意するけど、宗教を馬鹿にすることが悪いことなのかについては異論がある。日本では宗教を強制されることはまずない。それは僕の子ども時代とは正反対だ。僕は教会で牧師から、神の言葉を信じ、服属しなさいと、地獄のような説教を毎週聞かされ脅迫された。他人に信仰を強制するような宗教は、人々がそっぽを向いて、悪態をつかれて当然だ。日本でもそうだ。人々が宗教に対して軽蔑する時、それは大抵熱心に勧誘を進めている団体だ。私の妻は実践的な仏教徒だけど、今まで一度も彼女もその団体も僕をその団体に入れようとはしないし、呪いの言葉で脅迫したりはしない。彼らは私を尊重し、私は彼らを尊重する。
○日本人はとても宗教的だと思うよ。国家的宗教は”日本人であるということ”だけ。信仰に関して底抜けに自由で僕はそれが大好きだ。神道で生まれ、カトリックで結婚し、仏教徒で死んでいく。それは素晴らしいことだ。もっとほかの宗教も混ぜていいと思う。宗教はOKだよ。まじめに受け取らなければね。日本はそれを理解している数少ない国だ。
○
日本人はreligious(宗教的)であるというより、spiritual(霊的、魂の、超自然的)であると私は思います。
何に基づいているのかな?
日本人が宗教的でないというのは知っている。調査でも過去60年、70-80%の人が自分を宗教的でないと答えている。でも日本人がスピリチャルであるかどうかというデータはなかなか見つからない。
日本の最も特質すべきで好ましいことは、私の見方によれば、公的な場所でスピリチャルなものがほとんどないことだ。日本はそうであることによって宗教的に寛容な社会を築いているのだ。
○この記事は素晴らしいし分析は正しいと思う。僕はカトリックの伝道者を日本でやっているけど、この記事には同意する。ところで、まだライスパトロールが続いていると聞いて嬉しいです。
○コメントを見て面白かったのは、多くの人がアブラハム宗教(ユダヤ、キリスト、イスラム教)を批判していること。暗にその信徒を批判し、その影響の少ない日本を褒めている。この記事の言ってることとは違うね。
日本人が他者の信仰についてからかったり、”おとぎ話”を信じていると馬鹿にするところを見たことがありません。
○僕の前の彼女はそんなに宗教的ではなかった。数年前、僕と彼女は神社に行き、彼女が祈りを始めた。僕は無神論者なので一緒に行くのはよくないと思って彼女を見ていたんだ。彼女が手を叩いて目をつぶってる姿は本当に美しかった。
僕はたまに日本人のようになりたいと思うんだ。
研究社 新和英中辞典での「信仰心」の英訳
信仰心 <信仰>
(religious) piety
信仰心 <信仰>
(religious) piety
出典:プログレッシブ和英中辞典
しんじん【信心】
faith, belief; 〔敬神〕piety
仏教を信心する
believe in Buddhism
神を信心する
worship God
信心深い
pious/devout/religious
しん‐こう〔‐カウ〕【信仰】 の意味
出典:デジタル大辞泉
[名](スル)《古くは「しんごう」》
1 神仏などを信じてあがめること。また、ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること。「信仰が厚い」「守護神として信仰する」
2 特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと。「古典的理論への信仰」「ブランド信仰」
しん‐じん【信心】 の意味
出典:デジタル大辞泉
[名](スル)神仏を信仰する心。また、加護や救済を信じて、神仏に祈ること。「信心が足りない」「信心を起こす」「信心深い」
http://stumbleon.blog.fc2.com/blog-entry-22.html
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日本人の信仰心について 外国人の意見
Japan Todayより
How religious are Japanese people?
日本人はどのくらい宗教的か?
海外の友達や親類から日本人の信仰心について尋ねられることがあります。これは簡単に答えられる質問ではありません。神道、仏教、靖国神社、創価学会や身近にある質素な神社まで、この話題に関する本は書かれています。日本はカルトやセクトの肥沃な土壌です。文化庁によれば、2011年までに、180000を超えるグループが宗教法人として登録されています。
日本人はreligious(宗教的)であるというより、spiritual(霊的、魂の、超自然的)であると私は思います。私の知っている日本人のほとんどは、神様を信じない、どの宗教も信じないと言います。一方で彼らはお盆や新年にはこぞって神社に行きます。大事な試験の前、成人式、就職面接、彼女、彼氏を探して、神社の絵馬に祈りを書いています。野球の春キャンプの前には、神道の神主がお祓いをします。新しい建物を建てる時には地鎮祭をやるし、長く使った機械や乗り物が引退する時にも神主が出て来ます。
西洋人の中にはこれらの儀式を迷信だと言う人もいますが、私はこれらが日本社会に深く根ざした部分であると思います。神社に行くことは宗教的儀式というより、文化的な伝統です。近所の神社が何世紀にも渡って日本の共同体の重要な部分であったということを考えれば当然でしょう。
私が初めて日本に来たのは80年代中盤ですが、神道や仏教について少ししか知らなかったし、それらが、日本の生活でどのような役割を果たしているのか知りませんでした。ある老人は日本人は神道とともに生まれ、仏教徒として死んで行く、と冗談っぽく言いました。
カトリックであり、毎週日曜に教会に行く自分にとっては、毎週日曜日に教会に行かない人は宗教的であるとは言えません。それで、当時の私の結論は、日本人には全く信仰心がないというものでした。
多くの場合、日本人は宗教を ― 国内のものであれ、外国のものであれ ― 一時的な流行や海外の文化を扱うのと同じやり方で扱ってきました。借用し、適応させ、必要な時か便利な時に、宗教のある側面だけを使うのです。良い例は、キリスト教スタイルの結婚式です。
日本人は他の宗教にそんなに精通している訳ではないけれども、とても敬意を払います。日本に住んで30年になるけれども、日本人が他者の信仰についてからかったり、”おとぎ話”を信じていると馬鹿にするところを見たことがありません。そのような無礼な行動は日本以外ではしばしば見かけますが。日本人が厳しいのはカルト信者に対してだけです。
27年ほど前から、六本木の我々の教会ではライスパトロールというホームレスの人たちにおにぎりを配る活動を始めました。カトリックにより始められましたが、今では日本人を含む、非カトリックにも広がっています。彼らにとっては目を開かせてくれるイベントになるようです。
災害や事故、殺人などで親族が集まって遺族のために祈るときにはいつもそうですが、特に2011年の災害の後、日本人の間にスピリチャルな感覚が強まっているのが感じられます。
今月初めのストーカー殺人事件で、親族は痛みと苦しみ、天国へ行けるように祈っているとの声明を出しました。心痛む表現です。
そのような悲劇の時には、日本人は世界の他の人たちと何ら変わらないと思います。悲劇を前にしたら我々は答えを求めます。それを宗教と呼ぶか、スピリチャルと呼ぶか、迷信と呼ぶかは関係ありません。
コメント欄
○
日本人は世界の他の人たちと何ら変わらないと思います。
冗談でしょ?世界には中東や、北アフリカ、中央、南アジアなど、暴力的で偏屈な世界があって、日本は隔絶された世界にある。それはいいことだ。
日本には本物の宗教はない。神道は多神教の儀式のより集めで、拘束的なイデオロギーがない。仏教について、日本のサラリーマンで涅槃を追い求めてる人がどれだけいるっていうの?
政治、社会、知識階級に宗教が存在しないことは、もっとも称賛に値する日本の特質だ。
○僕は僕の妻が宗教的であるとは言えない。でもたまに、神社に行ってお祈りをするんだ。そして僕たちがニューサウスウェールズで日本人捕虜(脱走しようとして死んだ)の墓に行った時、彼女はひざまずいてお祈りをしていた。それ以外では全く宗教的なところは見せない。それは宗教的であるというより、スピリチャルであると思った。
僕が好きな日本の変わった宗教施設は、昔住んでた松原の近くにあるお寺で、人々は人形を持ち込むんだ。嘘じゃないよ。大きな箱があってそこに人形を入れるんだ。僕の妻が言うには、人形は持ち主の魂を持っているから、焼却される前にbless(祝福、供養)をする必要があるって。そのことを聞いて、多くの日本人が持っているとても素朴な気持ちがわかったし、少しばかり妻への愛が強まったんだ。
○君のコメントは記事より面白いね。
○キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、等々、の宗教病は人間が死を恐れない段階まで進歩した時にのみ消える。そのような点から、死の受け入れが西洋に比べてより現実的で、自然で、ずっと感傷的ではない、日本で暮らすことは本当に新鮮な喜びだ。
○日本には多くのお寺や神社があり、様々なイベントや祭りが開催されているので、宗教的であるように見えるのは明らかだ。しかしながら、調査をすれば彼らが宗教的ではないと示すということは、彼らは特定の宗教を実践したり、没頭してはいないということだろう。日本では人々は宗教が何であるかについて違った考えを持っている。彼らは宗教とはキリスト教のような、組織化され、聖典に基づくものであると考えおり、さらに教義と規則であると考えている。文化と宗教が複雑に絡み合っているので、日本人は自分たちの宗教に気がつかない。日本人は最も熱烈な信仰心のある人たちではない。複雑になっていて、キリスト教徒が考えるような宗教心は持っていない。もし日本の人々の宗教を特徴づけるとすれば、ある教義に厳密に従うというよりも、家族と伝統に密接につながった行いであるといえるだろう。
○日本人は宗教によって満たされた静かな精神性を持っていると思う。
私の妻(日本の田舎出身)とその家族、友達はこのとても自然な精神性を、日々の生活で、ほんの少しだけ見せる。この精神性の核にあるのは本当に強い”場所”とのつながりだ。先祖、伝統、信仰、他者、との強くてかすかなつながり。文章にすることは難しくてうまく言えないけど、それはとても感じの良いものでいつも感心させられる。
○個人的に、日本がキリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの主流な宗教の影響下にないことはいいことだと思う。これらは頭痛しかもたらさない。日本がこれらの宗教に支配されないことを願うよ。
○いい記事だ。西洋の神の概念は未開な異教徒の日本には根付かないと思う。それは良いことでもあり、悪いことでもある。ユダヤ教徒やキリスト教徒やイスラム教徒が信仰するような神がいないので、日本人は、そのような神信仰は迷信で馬鹿馬鹿しいと考えることができる。それと同時に、日本人は自分より高い存在との関係を得られないので、道徳的な高みに到達しようと考えない。どっちもどっちだ。全体的に言って、彼らが宗教的でないのは良いことだ。
○日本で信仰とか精神性とか語るときにはカルトの存在を無視できないよ。
○
日本には本物の宗教はない。
このたった一文だけで、君ががどれだけ侮辱的だか理解しているかい?誰が本物の宗教なんて判断するんだ?喧嘩売ってるわけじゃないけど、言葉には気をつけろよ。
○
喧嘩売ってるわけじゃないけど
彼は、本物の宗教とは”組織化された宗教”のことを言ってるんだろ?それのどこが侮辱的なんだ。
○
本物の宗教とは”組織化された宗教”のことを言ってるんだろ
神道は組織化されてないって言うのかい?天皇に聞いてくれ。
○
死の受け入れが西洋に比べてより現実的で、自然で、ずっと感傷的ではない
日本が本当にそうだと思う?具体的に何のこと?
実際はその反対だ。生へのあくなき執着、避けることのできない死の拒絶。それが日本での医療サービスの背骨になっている。
私の知り合いの73歳の牧師は、毎日充実して生きている。生や死への恐れを持っていない。すべては神の意志であると信じているからだ。彼女はボランティアのカウンセラーでキリスト教徒じゃない地元民の病気や死について相談に乗っている。
無神論者として、彼女の信仰には全く賛成できないけれども、信仰が彼女のような人の生活を苦境においても楽しくしているのが分かる。ちょっと嫉妬していることを認めるよ。
○僕の生徒の一人が言うには、日本での”宗教”の多くは詐欺だということ。結婚する時、誰か死んだ時、宗教の人間が表れて、数分ぶつぶつ聖なる文章を読み上げて、金を要求するという。
○この記事の多くには同意する。西洋の宗教では、これを信じなさいとか、こうしなさいとか、これはするなという長ったらしい”教義”という考えが中心になっている。これは全ての人に当てはまるわけではないので、とても不自由だと感じる。ほとんどの西洋の宗教ではこれを受け入れないと追い出されてしまう。
ある国の宗教的方向性については、宗教とのかかわりは個人的なものなので、それを一般化することはできないと思う。
○ほとんどの日本人は宗教的であると言える。彼らは神道か仏教徒して生まれ、キリスト教徒として結婚し、毎年クリスマスを祝い、何で死ぬんだっけ?ぐちゃくちゃに混ざっている。僕が間違ってたらごめん、仏教の僧侶は世界中で結婚しちゃいけないんだろ?でも日本の僧侶は、結婚し酒を飲み、肉を食う者もいる。
どうでもいいけど、我々は彼らを判断はできない。神(々)との関係は個人的なものだからね。
○私の理解では、日本社会の構造と道徳の多くは儒教からの影響が大きい。例えば、年長者に対する尊敬と敬語、丸暗記学習と厳しい試験。間違ってたらごめん。
○何人かの投稿には視野の狭い内容が含まれていると思う。
他人の宗教が自分と違う場合、それは宗教じゃない、霊的なものか迷信だという人がいる。他人が違うものを違う方法で崇拝しているからといって、宗教を持っていないとか、信仰心がないということではない。
人々が宗教について議論しないからといって、彼らが宗教的でないというわけでもない。日本では、あまりにも日常と一体化しているので、宗教を認識するのは難しい。宗教はそうであるべきなのだ。人々は宗教とともに生きるべきなのだ。
著者に関して一つだけ同意できない。日本人が他宗教に対して敬意を表すというところだ。
トレンディなアクセサリーとして、日本人がロザリオを身につけているのを見るといまだに震えが起こる。それは単に、正しくない。
○僕の教会には毎週たくさんの日本人が来るよ。
○
著者に関して一つだけ同意できない。日本人が他宗教に対して敬意を表すというところだ。
トレンディなアクセサリーとして、日本人がロザリオを身につけているのを見るといまだに震えが起こる。それは単に、正しくない。
これとインチキ教会ウェディング。コピーの教会を作り、牧師の衣装を作って、結婚式を挙げるなんて本当に冒涜だと思うよ。
○
日本人が他者の信仰についてからかったり、”おとぎ話”を信じていると馬鹿にするところを見たことがありません。そのような無礼な行動は日本以外ではしばしば見かけますが。
日本人が他者の信仰を馬鹿にしたりしないという点は同意するけど、宗教を馬鹿にすることが悪いことなのかについては異論がある。日本では宗教を強制されることはまずない。それは僕の子ども時代とは正反対だ。僕は教会で牧師から、神の言葉を信じ、服属しなさいと、地獄のような説教を毎週聞かされ脅迫された。他人に信仰を強制するような宗教は、人々がそっぽを向いて、悪態をつかれて当然だ。日本でもそうだ。人々が宗教に対して軽蔑する時、それは大抵熱心に勧誘を進めている団体だ。私の妻は実践的な仏教徒だけど、今まで一度も彼女もその団体も僕をその団体に入れようとはしないし、呪いの言葉で脅迫したりはしない。彼らは私を尊重し、私は彼らを尊重する。
○日本人はとても宗教的だと思うよ。国家的宗教は”日本人であるということ”だけ。信仰に関して底抜けに自由で僕はそれが大好きだ。神道で生まれ、カトリックで結婚し、仏教徒で死んでいく。それは素晴らしいことだ。もっとほかの宗教も混ぜていいと思う。宗教はOKだよ。まじめに受け取らなければね。日本はそれを理解している数少ない国だ。
○
日本人はreligious(宗教的)であるというより、spiritual(霊的、魂の、超自然的)であると私は思います。
何に基づいているのかな?
日本人が宗教的でないというのは知っている。調査でも過去60年、70-80%の人が自分を宗教的でないと答えている。でも日本人がスピリチャルであるかどうかというデータはなかなか見つからない。
日本の最も特質すべきで好ましいことは、私の見方によれば、公的な場所でスピリチャルなものがほとんどないことだ。日本はそうであることによって宗教的に寛容な社会を築いているのだ。
○この記事は素晴らしいし分析は正しいと思う。僕はカトリックの伝道者を日本でやっているけど、この記事には同意する。ところで、まだライスパトロールが続いていると聞いて嬉しいです。
○コメントを見て面白かったのは、多くの人がアブラハム宗教(ユダヤ、キリスト、イスラム教)を批判していること。暗にその信徒を批判し、その影響の少ない日本を褒めている。この記事の言ってることとは違うね。
日本人が他者の信仰についてからかったり、”おとぎ話”を信じていると馬鹿にするところを見たことがありません。
○僕の前の彼女はそんなに宗教的ではなかった。数年前、僕と彼女は神社に行き、彼女が祈りを始めた。僕は無神論者なので一緒に行くのはよくないと思って彼女を見ていたんだ。彼女が手を叩いて目をつぶってる姿は本当に美しかった。
僕はたまに日本人のようになりたいと思うんだ。