
落語の与太郎ではないが、ヨタヨタなことを言うと――
肯定と否定、肯定論があるところに否定論がある、となるのは。そうなったときのことで、初めから否定論だけである。
ところが否定論があって、その論は肯定がある訳ではない。こうだから違うのだと、もともとの状態には肯定しているものがある。
肯定論とするのも否定論が出たから、あえて否定論側からみれば肯定論側になると言うだけで、それについてはもとより肯定も否定もない。
主語を決めてきている取り決めに、つまり、否定論というのは新しい議論を作るものでもない。
否定論に対しては否定の理由のその否定との議論になれば、現実には趣旨をくら替えもするというものだったから、消極的否定の論である。
このややこしさに議論をゆだねてしまってきている。
象は鼻が長いという例文もそうである。象の鼻が長いと書き換えることができるとパラレルに言うが、象は鼻が長いことだという題述文の主張を認めれば、象が鼻が長いことだという奇妙な文にはならず、それを二重主格の文とする説明もそれぞれの構造のことになって、所有を意味する書き換えの言うところの属格の例文は構造において全く違ったものである。
この論法は陰題と顕題の対の立て方も同様であるし、主語があるから補語と言えることだし、主格という形態は屈折変化を持つかどうかであるにかかわらず述格となる語の品詞はなんなのか。
どれも独自の視点であるように見えて、自らの持つ論理に適合するかどうかを検証をするだけである。
文節の説明がイージーゴーイングだというときに、それほどにわかりよく教科文法に普及したと認めるのが潔いが、工夫したかに見える形態に分析するローマ字語尾のような動詞変化の書きようは誰が理解できるだろう、小学生においてみても、中学生になるまでも日本語に主語がないという前提で文法教育が行われるとしたら、将来に成長期のアイデンティティーの形成に言語使用はどういうことが起こるだろうか。
