日本語文法
日本語文法と国語文法と
主語の明示は述語とするものに対応する。文の成立に主語を必須とする文法議論を入れて文の規定に主語述語の必須をもってを文法とした。そして日本語の説明ではどうなったかというと主語述語の規定には文とのかかわりで必須成分ではなかった。何が、何は、この何を名詞扱いにして述語部分を提示して緩やかに日本語の文を示した、国語の文法でそうしていたのであるが、日本語教育の文型の影響で、NV NA NN、と一見してわかりにくい文型をたてて、Subject Verb Adjective Noun の要素を略字した。これは日本語の初級文法で3つの基本文型とよく知られたところ、文法構造では要素の説明に主語を置いて部分的にせよ教育文法としたものである。ここには文頭となるSにNが置き換わるので、さらに、NがVます NがA N1はN2です というパターンにして、導入文型の丁寧語法が示されることで代表としている文型である。文型はこれに限らず動詞文、形容詞文、名詞文と呼称したりするので、主語の明示については教育用文法の運用にあることがわかる。
国語文法に従えば主語述語の主語必須はかかわりなく、とくに動詞を述語とする英語文法とでは大きな違いがあってそれを先の言い方で言うと緩やかに示したものを事例で捉えていた。教師が主語必須を言うことはなかったのであるが、そこに同じく教師で英語文法の議論で日本語では主語が必須でないから文の成立に主語述語の説明は合わないというようなことを言い始めることになり、ひいては国語文法の文の説明での主語述語はおかしいとまで考えるようになって、これは推測に過ぎないが、国語の文法は非論理的出るとの議論委まで展開している。国語の文に主語は必須でないとは英語文法の必須を下敷きにした議論であるから、それをもって主語の有無を問いただすのは一つの基準に過ぎない。主語を必須に持たずとも主語述語の文を規定することは何らおかしいことではない。
むしろ国語文法の議論で、国語の現象に合わせて主語を非明示とする表現で主語の特定を考える文の理解がどれだけ文法の議論に寄与したであろうか。いわば日本語の主語の発見を近代以降の国語は遂げてきたのである。もちろん議論先行の話ではない。国語の現象に翻訳文の影響が大木のである。