伊東四朗さんの対談記事を読む。平和ボケの言葉が飛び出して、語る口調にはあきらめも聞こえてくるような、それでいて切々と訴えるものが感じられた。てんぷくトリオでお笑い芸をしていた。それが、俳優としても活躍する印象のもとにある。1960年代から1980年代はじめにかけて活躍したが、トリオのメンバーがお笑いグループとして次々にいなくなってしまって、伊東さんだけが残っているので、お笑いと寂しさと、そこに軽妙なアドリブ喜劇役者の性格ができ上ったような芸風である。毎日新聞のインタビューに、> 伊東さんの人生における「どん底」、それが戦争の時代だった。「学校に行くと昨日まで生きていた友達が来ない。そんな悲痛な体験があるから、それからどんなにつらいことがあっても苦にはならなかった。戦争以上に怖いものはないから、しぶとく生きてこられた」 と語っている。
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この国はどこへ これだけは言いたい 喜劇役者・伊東四朗さん・82 ...
2 日前 - 「はっきり言えば、平和ぼけですよね」 自身の戦争体験を語るインタビューの冒頭、喜劇役者の伊東四朗さん(82)はソファに体を沈めたまま、抑揚のない声でこう切り出した。「今の大学生で、日本と米国が戦争していたことを知らない人も少なく ...
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【インタビュー】伊東四朗さん(喜劇役者)「舞台が自分のホーム ...
2018/05/14 - 【サライ・インタビュー】. 伊東四朗さん (いとう・しろう、喜劇役者). ――芸歴60年。舞台でのコントが芸の原点. 「おごれる者もひさしからず。『平家物語』の一節が人生の歯止めになっています」. 撮影/宮地 工. ※この記事は『サライ』本誌2018 ...
ウイキペディアより
>1955年 - 新宿フランス座にて、三波と戸塚が同劇場の専属となる。熱心な観客の一人が伊東であった。
1961年 - 石井均一座に移っていた戸塚と伊東は、同一座解散とともに三波の下に集い「ぐうたらトリオ」を結成。1962年、「てんぷくトリオ」と改名した。この名前は当時人気だった「脱線トリオ」(由利徹・南利明・八波むと志)をもじったものである。「ぐうたらトリオ」から「てんぷくトリオ」に改名した理由は、日劇の舞台に出演することが決まった際の「『ぐうたら…』では好ましくない」という東宝の意向によるもの。
1972年 - NHK『お笑いオンステージ』の名物コーナー「てんぷく笑劇場」に出演開始。
1973年 - 戸塚が肝硬変により42歳で病死。残った三波と伊東で「てんぷく集団」と改名し活動を継続するも、徐々に個人の活動が中心となっていく。
1982年 - 三波が解離性大動脈瘤破裂により52歳で急逝。突然の出来事に、唯一のメンバーとなった伊東はインタビューで号泣した。
「てんぷくトリオ解散」について伊東は1973年5月14日、戸塚の葬儀弔辞で「これが、てんぷくトリオの最後の公演です(大意)」と述べる一方でてんぷくトリオや三波の回想ドキュメント番組では「誰も解散を口にしていない」と繰り返していた