かみ、ほとけ、神仏を訓んだ。
神道と仏教になる。
神仏同体説があり、仏と神道の神とが同一であるとする考え方だが、本地垂迹説、神本仏迹説などがある。
神仏習合また神仏混交の考え方の流れがある。
日本の宗教思想である神の信仰に仏の教えが移入されたことを捉えるが、その経緯には神宮寺の建立がある。
また為政者による国家鎮護に底流がある。
6世紀から19世紀までのあいだ、1200年間に及ぶ。祭政一致を近代の国家に掲げて神道となる。
神は立憲君主制の背景に復活した形となる。
仏は民衆の救済に向かった歴史的な日本の思想ともなっていたので、衆生済度は続く。
かみ ほとけ この違いを日本人としてどのように意識するかは、宗教、信仰、社会、人生に加えて、政治にかかわることである。
しゅうごう【習合】
( 名 ) スル
異なる二つ以上の教義などを折衷すること。 「神仏-」
しゅうごうしんとう【習合神道】
神道の一派。神・儒・仏の三教を習合したもの。
世界大百科事典 第2版の解説
しんぶつしゅうごう【神仏習合】
日本の伝統的な神祇信仰と大陸伝来の仏教が接触混淆した結果,生み出された宗教現象。最も古くは宇佐八幡宮が朝鮮の土俗的な仏教の影響を受け,巫僧集団を形成し,6世紀終りころすでに神宮寺をつくった。8世紀になって気比神宮,若狭比古神社,多度神社などに神宮寺ができたが,東大寺大仏造立にあたり,伊勢神宮に祈願がこめられ,仏法帰依の神託を得,八幡神も大仏造立援助のため上京して東大寺鎮守となった。こうした朝廷の積極的な習合政策と地方民間修行僧の布教活動によって神前読経・神宮寺建立は全国的に広がった。
世界大百科事典内の神仏習合の言及
【神宮寺】より
…社僧(宮僧(くそう),供僧(ぐそう),神僧とも呼ぶ)が住み,仏事をもって神に奉仕した。神宮寺は,日本固有の神祇信仰と外来の仏教信仰が融合ないし混交した文化現象である神仏習合の思想にもとづいて出現した。文献上の初見は,《藤氏家伝(とうしかでん)》に藤原武智麻呂(むちまろ)が715年(霊亀1)越前の気比(けひ)神の託宣をうけて建てたという気比神宮寺であろう。…
【神道】より
…日本の土着の信仰を,神道と呼ぶことは,中世に入っても一般化してはおらず,神道の語をカミそのもの,あるいはカミの働きをさすことばとして用いている例は少なくない。他方,神仏習合が進み,僧侶が土着の信仰を指すことばを求め,神官が神々への信仰を主張しはじめると,神道という語が土着の信仰とその教説をあらわすものとして用いられるようになった。中世の末に大きな力を持つようになった吉田神道は,その例であるが,日本の民族宗教の代表的なものとして吉田神道の教説に接したキリシタンの宣教師が,日本人の信仰をXinto(中世の神道家の中には濁音を嫌う人々が多く,神道の二字をシンドウではなくシントウと読むことが主張されていた)ということばでとらえたことに端を発して,神道の語は外国に知られることになった。…
世界大百科事典 第2版の解説
しんぶつぶんり【神仏分離】
明治初年に維新政府が天皇の神権的権威の確立のためにとりいれた神道保護と仏教抑圧のための宗教政策。維新政府は,1868年(明治1)1月17日の第1次官制で神祇科を,ついで神祇事務局,神祇官をおいて,復古神道説の立場にたつ国学者や神道家を登用し,彼らに新たな宗教政策を推進させた。同年3月13日に,祭政一致の制度にもとづいてすべての神社が神祇官の付属とされることが定められ,ついで僧形で神社に勤仕することが禁じられ,3月28日には,仏教語を神号とすること,仏像を神体としたり神社に鰐口・梵鐘その他の仏具をおくことの禁止などが定められた。
百科事典マイペディアの解説
神仏習合【しんぶつしゅうごう】
神仏混淆(こんこう)とも。神と仏とを調和させ,同一視する思想で,神道と仏教の同化を示すもの。奈良時代に起源をもち,神宮寺の建立が行われ,神のための納経があった。
神道と仏教になる。
神仏同体説があり、仏と神道の神とが同一であるとする考え方だが、本地垂迹説、神本仏迹説などがある。
神仏習合また神仏混交の考え方の流れがある。
日本の宗教思想である神の信仰に仏の教えが移入されたことを捉えるが、その経緯には神宮寺の建立がある。
また為政者による国家鎮護に底流がある。
6世紀から19世紀までのあいだ、1200年間に及ぶ。祭政一致を近代の国家に掲げて神道となる。
神は立憲君主制の背景に復活した形となる。
仏は民衆の救済に向かった歴史的な日本の思想ともなっていたので、衆生済度は続く。
かみ ほとけ この違いを日本人としてどのように意識するかは、宗教、信仰、社会、人生に加えて、政治にかかわることである。
しゅうごう【習合】
( 名 ) スル
異なる二つ以上の教義などを折衷すること。 「神仏-」
しゅうごうしんとう【習合神道】
神道の一派。神・儒・仏の三教を習合したもの。
世界大百科事典 第2版の解説
しんぶつしゅうごう【神仏習合】
日本の伝統的な神祇信仰と大陸伝来の仏教が接触混淆した結果,生み出された宗教現象。最も古くは宇佐八幡宮が朝鮮の土俗的な仏教の影響を受け,巫僧集団を形成し,6世紀終りころすでに神宮寺をつくった。8世紀になって気比神宮,若狭比古神社,多度神社などに神宮寺ができたが,東大寺大仏造立にあたり,伊勢神宮に祈願がこめられ,仏法帰依の神託を得,八幡神も大仏造立援助のため上京して東大寺鎮守となった。こうした朝廷の積極的な習合政策と地方民間修行僧の布教活動によって神前読経・神宮寺建立は全国的に広がった。
世界大百科事典内の神仏習合の言及
【神宮寺】より
…社僧(宮僧(くそう),供僧(ぐそう),神僧とも呼ぶ)が住み,仏事をもって神に奉仕した。神宮寺は,日本固有の神祇信仰と外来の仏教信仰が融合ないし混交した文化現象である神仏習合の思想にもとづいて出現した。文献上の初見は,《藤氏家伝(とうしかでん)》に藤原武智麻呂(むちまろ)が715年(霊亀1)越前の気比(けひ)神の託宣をうけて建てたという気比神宮寺であろう。…
【神道】より
…日本の土着の信仰を,神道と呼ぶことは,中世に入っても一般化してはおらず,神道の語をカミそのもの,あるいはカミの働きをさすことばとして用いている例は少なくない。他方,神仏習合が進み,僧侶が土着の信仰を指すことばを求め,神官が神々への信仰を主張しはじめると,神道という語が土着の信仰とその教説をあらわすものとして用いられるようになった。中世の末に大きな力を持つようになった吉田神道は,その例であるが,日本の民族宗教の代表的なものとして吉田神道の教説に接したキリシタンの宣教師が,日本人の信仰をXinto(中世の神道家の中には濁音を嫌う人々が多く,神道の二字をシンドウではなくシントウと読むことが主張されていた)ということばでとらえたことに端を発して,神道の語は外国に知られることになった。…
世界大百科事典 第2版の解説
しんぶつぶんり【神仏分離】
明治初年に維新政府が天皇の神権的権威の確立のためにとりいれた神道保護と仏教抑圧のための宗教政策。維新政府は,1868年(明治1)1月17日の第1次官制で神祇科を,ついで神祇事務局,神祇官をおいて,復古神道説の立場にたつ国学者や神道家を登用し,彼らに新たな宗教政策を推進させた。同年3月13日に,祭政一致の制度にもとづいてすべての神社が神祇官の付属とされることが定められ,ついで僧形で神社に勤仕することが禁じられ,3月28日には,仏教語を神号とすること,仏像を神体としたり神社に鰐口・梵鐘その他の仏具をおくことの禁止などが定められた。
百科事典マイペディアの解説
神仏習合【しんぶつしゅうごう】
神仏混淆(こんこう)とも。神と仏とを調和させ,同一視する思想で,神道と仏教の同化を示すもの。奈良時代に起源をもち,神宮寺の建立が行われ,神のための納経があった。