逝去は死去することを意味する。
敬語の用法とも説明があったりする。
死ぬという語を忌みとして嫌う日本語が漢語の逝くに求めた語であろうか。
逝くという字には、字音セイ、字訓ゆく・しぬ、同訓異字ここに・しぬ・ゆく、としての説明がある。
また、説文、二下に、往くなり、とあり、訓義[1] ゆく、さる。[2] しぬ、みまかる。[3] さける、まがる、およぶ と、字通は載せる。
のち長逝死去の意に用いる、と見えるので、この語の成り立ちを思わせる。
逝去が、 死ぬことを意味するのは、長くゆく、そして去ることからであるとわかる。
熟語の、逝者については、ゆくもの、流水のことであり、
論語、子罕にある、子(し)、川の上(ほとり)に在りて曰く、逝(ゆ)く者は斯(かく)の如き夫(かな)、晝夜を舍(お)かず、
を引くように、時間をとらえた言い方がある。
字通には、さらに、逝水、逝川をあげて、ともに、 流水としている。
日本語での用例には、
将門記に、940頃か、逝去す、とあり、
太平記に、14C後、三三・将軍御逝去事とあって、
日葡辞書にも、1603〜04、Goxeiqio (ゴセイキョ) ナサレタと、
日本国語大辞典に見える。
そこで、逝去を、行く、あるいは、去るとしてみるのはもちろんのこと、そこに時間の流れを意識する。
ここにとどまらず、さることなのであるから、それは生命の無限をも見ようとする哲学である。
逝去をもって敬意を込めた言い方の、尊厳がある。
しかしまた一方で、逝水、逝川の意味をとらえさせる。
逝川を思うのは有名な一節、
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとのみずにあらず、
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし、
世中にある人と、すみかと又かくのごとし
とある、方丈記の冒頭である。
逝く河であるから、小川を見てうたかたを実見した思いがある。
思春期の入り口に、中学生の時にあったのが、逝川のこと、河でなく、かわであった。
敬語の用法とも説明があったりする。
死ぬという語を忌みとして嫌う日本語が漢語の逝くに求めた語であろうか。
逝くという字には、字音セイ、字訓ゆく・しぬ、同訓異字ここに・しぬ・ゆく、としての説明がある。
また、説文、二下に、往くなり、とあり、訓義[1] ゆく、さる。[2] しぬ、みまかる。[3] さける、まがる、およぶ と、字通は載せる。
のち長逝死去の意に用いる、と見えるので、この語の成り立ちを思わせる。
逝去が、 死ぬことを意味するのは、長くゆく、そして去ることからであるとわかる。
熟語の、逝者については、ゆくもの、流水のことであり、
論語、子罕にある、子(し)、川の上(ほとり)に在りて曰く、逝(ゆ)く者は斯(かく)の如き夫(かな)、晝夜を舍(お)かず、
を引くように、時間をとらえた言い方がある。
字通には、さらに、逝水、逝川をあげて、ともに、 流水としている。
日本語での用例には、
将門記に、940頃か、逝去す、とあり、
太平記に、14C後、三三・将軍御逝去事とあって、
日葡辞書にも、1603〜04、Goxeiqio (ゴセイキョ) ナサレタと、
日本国語大辞典に見える。
そこで、逝去を、行く、あるいは、去るとしてみるのはもちろんのこと、そこに時間の流れを意識する。
ここにとどまらず、さることなのであるから、それは生命の無限をも見ようとする哲学である。
逝去をもって敬意を込めた言い方の、尊厳がある。
しかしまた一方で、逝水、逝川の意味をとらえさせる。
逝川を思うのは有名な一節、
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとのみずにあらず、
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし、
世中にある人と、すみかと又かくのごとし
とある、方丈記の冒頭である。
逝く河であるから、小川を見てうたかたを実見した思いがある。
思春期の入り口に、中学生の時にあったのが、逝川のこと、河でなく、かわであった。