西洋人の日本語発見より、露西亜への漂流民の記述を紹介してきた。
講談社学術文庫版のあとがきによると、これは1989年の創拓社版にはなかったのを補訂している。
ポルトガル人、オランダ人、アメリカ人らの日本語観、日本語研究を取り上げていたもので、それにロシア人が加わった。
四海より臨む日本を取り囲む周辺はそのかなたに人知れず流れ着いた人々の世界があったのである。
日本に宣教、貿易のためにやってきた人ではなく、漂流して過酷な状況でやむなくその運命を受け入れたものであろうが、生き延びた人たちの異郷の地での活躍は決して見過ごされない。
日本語教育史の視点には留学生教育をすえるものではあるけれど、また布教のために日本語をかの地で教えてきた人たちも多いことだろう、そのなかにあってロシアからヨーロッパへ、そして革命にあって、パリからアメリカ大陸へと日本語の関心は運ばれていく様子はそれを知るものとして何ほどを感じるであろうか。
ロシアでの日本語研究はかくして開かれていった。
講談社学術文庫版のあとがきによると、これは1989年の創拓社版にはなかったのを補訂している。
ポルトガル人、オランダ人、アメリカ人らの日本語観、日本語研究を取り上げていたもので、それにロシア人が加わった。
四海より臨む日本を取り囲む周辺はそのかなたに人知れず流れ着いた人々の世界があったのである。
日本に宣教、貿易のためにやってきた人ではなく、漂流して過酷な状況でやむなくその運命を受け入れたものであろうが、生き延びた人たちの異郷の地での活躍は決して見過ごされない。
日本語教育史の視点には留学生教育をすえるものではあるけれど、また布教のために日本語をかの地で教えてきた人たちも多いことだろう、そのなかにあってロシアからヨーロッパへ、そして革命にあって、パリからアメリカ大陸へと日本語の関心は運ばれていく様子はそれを知るものとして何ほどを感じるであろうか。
ロシアでの日本語研究はかくして開かれていった。