国語文法の国語とはなにかを問うことはなかった。
明治以降の近代国家の成立過程で国語調査のことが行われて、方言が入り混じることになった国家の中央語を標準策定しようとして、国語調査機関の設置、引き継いで、国語審議から、さらに、>2001年の中央省庁再編に伴い国語審議会は,著作権審議会,文化財保護審議会,文化功労者選考審査会の機能を統合し,文化審議会として改めて文部科学省に設立 という様子である。
国語を問うことはなかった、というのは、国語を問い続けて、諸般の情勢で文化審議会に統合されたところで、その内実を問うと、国語をイデオロギーにとらえる議論に見るように、その一方では、近代に起こった内地の国語、外地の日本語という時期を経て、敗戦を契機に、これは悠久1300年ばかり、万葉集編纂あたりを想えば、和歌に詠まれ、物語に作られた、歴史記述に用い、漢文訓読の言語を用いてきた、その国語の改革に迫られたのであったが、そこで大いに国語を問うたわけであるが、その過程で現代日本語の呼称で言語教育をとらえる情況となってきたのである。国語に対比した日本語とは何か。その明確な規定があるわけではない。日本語として語られる内容は、倭語また和語、やまとの言葉、そしてながく借用語の関係をもつ、きわめて借用とするには言語現象で特異のことになるのだが、漢語、外来語という語彙の類別で捉えてきた、言ってみれば、さとことば、国言葉を国語としてあみだして、その調査会からすれば130年たらずのこと、それに日本語にわたることがらにくわえて、日本語を見ることになる。
したがって標題の日本語の文法には国語の文法をいま問うことになった現代日本語の用法を対照することになる。おおまかに言えば、国語の日本語という対象を現代口語の捉え方にに議論をすることになる。現代日本語、現代語、話し言葉の日本語、書きことばの日本語と言うふうに分析されるものである。
https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317732.htm
>国語問題・国語改良運動
徳川時代の封建鎖国のとびらが開かれて、わが国が近代化のれい明を迎えようとした幕末のころ、前島密が徳川慶喜に建議した「漢字御廃止之(の)儀」が国語改良運動の最初である。これは、「国家の大本は国民の教育にして其教育は士民を論ぜず国民に普からしめ之を普からしめんには成る可く簡易なる文字文章を用ひざるべからず」という論旨で、漢字の国語発達に及ぼす影響、漢字廃止に伴う利益等を論じたものである。前島はさらに、明治政府に対し、ひらがなをもって「国字と定め、古来の教育法を変じ、新教育法を以て、論理、物理、法理等より日常万般の事に至るまで、其仮名字なる簡易の国字を以て教育する」ことにしたらどうかという趣旨の「国文教育ノ儀ニ付建議」を提出した。このようにして、わが国の国語問題、国語改良運動が芽ばえてきた。明治維新を一つの新たな刺激として一転機を画したわが国の近代化現象の一翼に、欧米文物の吸収による近代市民社会的な進歩改良主義と国民意識の統一、国民文化の高揚による国力伸張主義が登場してきたのである。これが外に向かっては、わが国が諸外国と伍して対等に交際していく上において、日本語は外国語に比べて見劣りするのではないかという反省があり、国語についての近代社会的・文化的意義を改めてせんさくする必要が生まれたのである。また、内に向かっては、国民的教養の大衆化のための国語の統一と学習の平易化を図る必要から、国語・国字改良の機運が生まれてきたのである。
こうして民間にまき起こされた国語問題、国語改良運動を大別すると、1)漢字制限論、2)言文一致論、3)標準語論、4)国語尊重擁護論などがあった。これらは相互に入り乱れて世論をわかし、政府としても国語政策に介入しないではいられなくなり、その最初が明治三十三年の国語調査委員の委嘱であった。
国語調査機関の設置
明治二十六年、井上文相は字音仮名遣に関する諮問を落合直文、栗田寛、外山正一ほかの国語学者に対して行ない、その答申を受けて三十三年八月小学校令、同施行規則により「仮名の字体」、「字音仮名遣」、「千二百字漢字制限」を実施した。三十三年四月、前島密ほか七人の国語調査委員を委嘱したが、これは三十五年三月官制により国語調査委員会となり、加藤弘之委員長ほか委員一二人で「国語ニ関スル事項ヲ調査ス」る機関として発足した。この機関は、「普通教育ニ於ケル、目下ノ急務ニ応ゼン」ために、漢字の制限、字音仮名遣の改定、一語仮名造の改定ほかの調査を行なうこととし、「送仮名法」、「漢字要覧」、「仮名遣及仮名字体沿革資料」、ほか数多くの成果を発表した。
この国語調査委員会は大正二年に廃止し、十年になって臨時国語調査会を設置した。そして「常用漢字表(一、九六二字)」(大正十一年)、「仮名遣改定案」(大正十三年)、「字体整理案」(大正十五年)、「漢語整理案」(大正十五年~昭和三年、一三回)、「常用漢字表ノ修正(一、八五八字)」(昭和六年)などを作成し、昭和九年十二月廃止となりただちに官制による国語審議会に引き継がれた。
> 国語文法の国語とはなにかを問うことはなかった。
というのは、「大日本帝国憲法」下、および「日本国憲法」下の「国家としての『日本』」は、「国語文法における『国語』とは何か?」を問うことはなかった。そういうことだと思います。
とは言っても、「文法」だけを取りあげれば、江戸時代の国学者は、それなりに「国文法」にも目を向けていて(本居春庭がいます)、さらに遡れば「五十音図」の考案があります。
「チャカポン」という言葉がある通り、「茶道・華道・謡曲」というのは「武家の嗜み」でもあり、「謡曲」というのは言語コミュニケーションの中でも重要視されていたように思います。なにせ江戸は地方出身者の寄合所帯ですから。京都には「京ことば」があり、大阪には「大阪弁」がありますが、江戸には中心となるべき言語がありませんですたので(「べらんめぇ言葉」というのは、少なくともお武家さんの共通語ではないように思います)。
> こうして民間にまき起こされた国語問題、国語改良運動を大別すると、
> 1)漢字制限論、
> 2)言文一致論、
> 3)標準語論、
> 4)国語尊重擁護論
> などがあった。
わけですが、これらは(2)を別にすると「ガイアツ(外圧)」に対抗するためのものであって、(2)の「言文一致」は「国策」とは別物であって、一種の文藝運動であったように思っています。
そう思うと、「日本という国は、近代国家として、『国民の言語』としての日本語に、ちゃんと向かいあってこなかった」というのが、
> 国語文法の国語とはなにかを問うことはなかった。
の本意ではないかと受取りました。
いちおう長幼の順を弁えている儒教圏の日本人としては、「父祖両親や洗面器に下げる頭はあっても、英語やフランス語に下げる頭はない。シュメール語やアッカド語やギリシャ語やラテン語ならともかくも」くらいに思ってしまいます。英語は文章語としては収集がつかなくなっており(バーナード・ショーがボヤいています)、フランス語は周辺国の中心となるクレオール語の一種程度に思っています。
だいたい、ネイティブ話者が一億人ちょいしかいないのに、英語や北京語やロシア語やイスパニア語(カタロニア語を「スペイン語」で括っちゃうのには躊躇があります)やポルトガル語と互角に渡り合ってるうえに、「征服者の言語」ではないという時点で「負ける気がしない」と思います。
国文法の研究者は、もっと世界に目を向けて、積極的に情報発信しないといけないのではないか、と思います。寺村秀夫先生は大阪外大の英米科出身ですし。