日本語教育史(17) 漂流民して世界一周
19世紀の初めに、ロシアに流された津太夫一行は11年を経て、津太夫は日本に送還された。1804年のことである。
世界一周をして帰国した。環海異聞 に詳しい。
その一行の一人がロシアに帰化して日本語を教えた。
また、魯西亞使節、レザノフによって、いくつかの日本語に関する書物が、このころに著された。
1803年、文字と初歩的文法および会話を内容とする日本語を知るための手引書。
1804年、魯西亜文字による簡略日本語辞典。
1805年、日本滞在中改訂増補された魯西亜文字による日本語辞典。
通詞、馬場佐十郎によって、日本で本格的な魯西亞学が1811年、興る。
そして1865年、遣魯伝習生が5名、魯西亞に赴く。
さらに、1870年に、ペテルブルグ大学東洋学部・シナ蒙古日本学科に、3年4年の学生に日本語講義が行われた。約50年ぶりに日本語教授が復活した。
次は、津太夫らの記事である。
1793年、仙台の津太夫一行はアリューシャン列島のアンドレヤノフスキーに漂着しイルクーツクに送られた。
1796年、そのうちの一人、善六が日本語の教授に携わった。この津太夫の一行は伊勢の漂流民である新蔵の世話う受けていた。1810年に新蔵が死んだあと、善六は正式な講師となった。善六は帰化し、通訳としても活躍したという。
1804年、N.P.レザノフが津太夫らを送還するため、長崎に来た。津太夫は、日本人として初めて世界一周をした。聞き書き、環海異聞 がある。
1806年、魯西亞海軍士官、N.A.フヴォストフが樺太南部、アニワの日本人を急襲。幕府に大きな衝撃を与えた。
1811年、魯西亞艦長、V.M.ゴロヴニンは捕えられて松前に幽閉される。幕府の調べを受ける。
1816年、イルクーツク日本語学校閉鎖。この年に、ゴロヴニンの、日本幽囚記 が、アレクサンドル一世の勅許により、出版された。ヨーロッパ諸国語に翻訳された。日本では、遭厄日本紀事 として、蘭訳されて1825年完成。
19世紀の初めに、ロシアに流された津太夫一行は11年を経て、津太夫は日本に送還された。1804年のことである。
世界一周をして帰国した。環海異聞 に詳しい。
その一行の一人がロシアに帰化して日本語を教えた。
また、魯西亞使節、レザノフによって、いくつかの日本語に関する書物が、このころに著された。
1803年、文字と初歩的文法および会話を内容とする日本語を知るための手引書。
1804年、魯西亜文字による簡略日本語辞典。
1805年、日本滞在中改訂増補された魯西亜文字による日本語辞典。
通詞、馬場佐十郎によって、日本で本格的な魯西亞学が1811年、興る。
そして1865年、遣魯伝習生が5名、魯西亞に赴く。
さらに、1870年に、ペテルブルグ大学東洋学部・シナ蒙古日本学科に、3年4年の学生に日本語講義が行われた。約50年ぶりに日本語教授が復活した。
次は、津太夫らの記事である。
1793年、仙台の津太夫一行はアリューシャン列島のアンドレヤノフスキーに漂着しイルクーツクに送られた。
1796年、そのうちの一人、善六が日本語の教授に携わった。この津太夫の一行は伊勢の漂流民である新蔵の世話う受けていた。1810年に新蔵が死んだあと、善六は正式な講師となった。善六は帰化し、通訳としても活躍したという。
1804年、N.P.レザノフが津太夫らを送還するため、長崎に来た。津太夫は、日本人として初めて世界一周をした。聞き書き、環海異聞 がある。
1806年、魯西亞海軍士官、N.A.フヴォストフが樺太南部、アニワの日本人を急襲。幕府に大きな衝撃を与えた。
1811年、魯西亞艦長、V.M.ゴロヴニンは捕えられて松前に幽閉される。幕府の調べを受ける。
1816年、イルクーツク日本語学校閉鎖。この年に、ゴロヴニンの、日本幽囚記 が、アレクサンドル一世の勅許により、出版された。ヨーロッパ諸国語に翻訳された。日本では、遭厄日本紀事 として、蘭訳されて1825年完成。