日本語文法議論23912
主語を言わない、というのが、主語を表現しない、そしてまた、主語がわかる表現方法を選ぶ、というように理解しているかどうか、少なくとも古典文を読むとそういうふうに思ってしまう。それが古典文学の文章だと、まず平安時代の和歌、物語文で知ることになる。時代が下がってくるとメインの文学に語り口調がそのまま取られている作品から詩劇にもいわゆる演劇舞台作品となるものがあらわれて、さらに時代が下がって、そこにはわたしたちが使うことば、庶民の口調も交えて話し言葉の用法をそのままのように用いる詞章が記録される。
そこでの主体は主語の資格を以て言葉が投げ出されてくるようになるので、動作、作用、現象のとらえ方と表現法に自他の区別が言葉で見えてくる。そういう経緯にとらえてみると、主語の発見、発現は発言に明確である。古文を学習する技法に誰が何をと文に問いつつ解釈を進めて、それは現代語を使うわたしたちにも常にそれ誰のことなにのことと改めて問い直すのと同様である。